失うことにタフであれ。
昨日、ネットで、83歳の男性が、自宅兼工場を放火し、全焼させたというニュースが報じられていました。
放火する直前、「運転免許証の返納を巡り、家族と口論になった」と話していたということで、警察は動機などを詳しく調べているとのこと。
奥様が軽いやけどを負った程度で、他に被害者がいなかったのがせめてもの幸いです。
この事件について、これ以上のことは何もわかりません。
ただ、運転免許証の返納をめぐる家族との口論が放火の要因になったことが確かだとしたら、この男性にとって運転免許証は、自宅・工場よりも存在の重いものだったということ。
どうしても失いたくない、誰に何を言われても、手元に置いておきたいもの、それが「運転免許証」。
家族の返納への説得は、この男性にとって自分の存在意義を脅かすものであり、パニックに陥れるほどの脅威になったとも考えられますね。
実は我が父親。
運転免許証は元々持っていませんが、長らくインターネットで買い物や簡単なゲームなどを楽しんでいました。
ところが、認知機能が徐々に低下。オークションで手当たり次第に骨董品を買い漁り、貯金残高はほぼゼロに。
本人も懲りたのか、ここ1年以上、PCにはさわらなくなっていました。
ところが、インターネットの使用料は引き落しされ続けています。
そこで姉が、「お父さん、パソコン、もう使わないなら、利用停止の手続きしようか?」ともちかけました。
すると、父親は、「いいんだよっ。このままにしといてくれ!!」と大声で怒鳴ったそうです。
姉はそれ以来、そのことはまだ話題に出せずにいます。
「運転免許証」にしても、「インターネット」にしても、年齢を重ねて使いこなせなれば、手放していく。それが抗いようのない自然の流れ。
ただ、それは単に、「車に乗れない」「インターネットが使えない」という手段的なことだけではなく、それによって自己イメージがひどく傷つけられ、自尊心が低下するというやっかいな一面もありますね。
そもそも、年を重ねるということは、体力や気力、知的な能力、容姿、さらには、親やきょうだい、友人、配偶者など、親しい人間関係の多くを失い、仕事や役割なども失っていくというまさに喪失の過程。
次々にやってくる「何かを失う」という体験の連続こそが、「老いる」ことの本質なのかもしれません。
だとすると、「失う」ことに気持ちが揺らいでいたら、人生の後半生は、本当につらい日々になってしまいそうです。
失うことにタフであれ!
失うことにタフでありたい!
こうしたニュースや周囲のエピソードを聞くたびに、自分に言い聞かせている言葉です。
「失う」というよりも、「自ら手放す」という感覚を常に持ち続けることが必要ですね。
自ら手放せば、きっと手に入れるものもあるはずです。
ただ、自ら手放すつもりなど毛頭なかったものも、ある日突然、もぎ取られるのが老年。
自由に動けた手足などのさまざまな身体の機能を奪われることだってあるでしょう。
その時には、「人生、生きてるだけで丸もうけ」
そう自分で自分を励ますしかないのかもしれませんね。
「こんなことになるとは思わなかった」という嘆きや怒りで、自分自身と周囲の生きるエネルギーを奪うことがないように。
大切なものを失った自分を何とか受け止め、それでも生きていく自分でありたいと思っています。
目を通していただきありがとうございました。
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