自分の考え方のクセに気づかされ、ブログの価値を考える
昨日のエントリーに、皆さんからコメントをいただき、ありがとうございました。
ある、高齢者施設で働くスタッフの悪意のない小さなウソ。
少しづつ、ウソがウソを呼びこんでいく様子に、ハラハラ。
これから、そのスタッフにとって職場が、居心地の悪い場所にならなければと先読みをして心配する気持ちを記事にしました。
この拙い記事に、いただいた皆さんからのコメント。
その悲しさや切なさに共感して下さった方、ご自分の経験と重ねてくださった方、そして、その体験を成長の機会にというご意見もいただきました。
ブログの記事によって、ひとつのエピソードを共有しても、感じ方は人それぞれ。
皆さんからのコメントを読んで、自分には、勝手に先読みをしてネガティブに考える思考のクセがあることに気づきました。
いずれ、小さな見栄から出た彼女のウソが職場の皆さんの知るところとなり、彼女は居心地が悪くなって職場を去るのではないだろうか。
彼女と職場のスタッフの方との関係がどことなくギクシャクするのではないだろうか。
彼女も、自分がウソをついたことを恥じて、ひどく落ち込む時が来るのではないだろうか。
そんなことを真剣に思っていました。
今後どう推移するか、全く何もわかっていないというのに。
私にはそのように、勝手に「ネガティブな妄想状態」に陥り、いつしかそれが、「そうなるに違いない」という確信めいたものに変わっていく、そんな考え方のクセがあるようです。
よくよく考えてみれば、この体験を糧に、彼女も周りのスタッフも成長していくチャンスはいくらでもありますね。
若さは、未熟を意味するばかりではなく、柔軟性や逞しさの象徴でもあるはずです。
小さな見栄は、認められたいという気持ちの表れ。
そんな気持ちさえ持てないスタッフもきっと働いておられるでしょう。
そう考えれば、今回は、少々背のびをしてしまったけれど、「もっと成長したい」「より有能な自分でありたい」という気持ちを表す出来事だととらえることもできるでしょう。
ある出来事をどう意味づけするかはその人次第。
そしてその意味づけによって、その出来事がストレスになったりならなかったり。
置かれている環境や出来事は変えることができないけれど、受け止め方は変えられる。
何度か聞いてきたこの考え方に、これまでその都度納得してきたつもりです。
でも、本質的な考え方のクセは、気づくチャンスをいただかないとなかなか変えられないものですね。
ブログの記事を書くことによって、自分が感じたこと考えたことを整理して表現する機会が与えられています。
ブログを書いているその時間は、今日というこの日、今というこの時の自分の表現でもあります。
漠然としている感情や考えを整理して表現し、それに対してコメントをいただき、今の自分に気づく。
ブログを通じて、常に自分を修正し続けていくことができたなら、それは私にとって、ブログを継続していくことの最高の価値のような気がしています。
目を通していただきありがとうございました。
あしあとを残していただけると励みになります。