自分を「初心者」だと言うのはやめよう
このところ、絵画教室をお休みしている私。
時々、先生とは連絡を取らせていただいています。
7月には作品展もあり、そろそろ出品作のことなど、真剣に考える時期が来ました。
実は、先生との会話のなかで、
「なんと言ってまだまだ初心者ですから・・・」と呟いた時、先生は、
「いやいや、もう初心者やないよ。逆に、自分のことを初心者やって思ってると、作品も初心者の域を出ないんとちがう?」
とおっしゃいました。
このことが、妙に胸に響いた私。
「拙い絵」、「初心者」、「まだまだヘタクソ」、「上手に描けない」
そんな言葉が半ば口癖のようになっていたことに気づかされました。
もちろん、本心からの言葉ではあるけれど、そこには「謙遜する」ことが当然だという大人の事情も少し。
かくして、絵画教室に通い始めて4年弱。
未だに、「いやいや、まだまだ初心者ですから・・」と言い訳する私が出来上がっておりました。
「私は初心者」だから「うまく描けない」
「私は初心者」だから「簡単なモチーフしか描けない、扱えない」
「私は初心者」だから「作品展には出せない」
「私は初心者」だから「基礎を固めるのが精いっぱいで冒険はできない」
「私は初心者」だから「結局は失敗する」
こう考えてみると、「自分は初心者」だという思い込みは、自分を縛り付けるもので、自分を解放することにはつながらないようです。
もしも、「自分には絵の才能がある」、「自分は天才」、「自分は持ってる」と固く信じていたら、
「自分は天才」だから「うまく描ける」
「自分は天才」だから「作品展で多くの方に観てもらいたい」
「自分は天才」だから「どんどん冒険して才能を開花させよう」
「自分は天才」だから「結局は成功する」
と、恐れることなくチャレンジしていけますね。
結局は、自分を縛っているものは自分なんだと、ここでもまた気づかされました。
きっとこのままでいたら、5年経っても、10年経っても、「自分は年月だけ重ねてはいるけれど、いつまでたっても初心者です」と謎の言葉を言いかねない私。
元気で絵を描いていられる時間は限られているかも知れないというのに!
いったい、いつになったら初心者から中堅、上級者へと進むのか、それを決める、決められるのは、自分自身なのですね。
自分に「自信」をもたらすは、外側からの評価ではなく、結局は自分。
もう、「初心者」の枠のなかからちょっとビクビクしながら周りを窺うのはやめて、どんどん外に出て行きたい。
そう思った先生との会話でした。
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人の相談に応じるには、エネルギーが必要だ!
昨日は、ブログを書く集中力もなく、どよんとした疲労のなかに腰まで浸かったような時間を過ごしていました。
回復したのは、夜になってから。
「あらら。一体、どうしちゃったのかな?」
こういうことは、時が過ぎるとすぐに忘れてしまうので、「自分自身の取り扱い説明書」をかねて、書き留めておこうと思います。
「心の疲労」その直接的な要因は、甥っ子からの相談。
「今の会社を辞めて、海外に出て転職したい」というものでした。
もろもろの職場の状況もあり、かなり追い詰められている状況。
今の日本の閉塞状況、背景にある人口の急減。
日本の将来像を思うと、かねがね若者はどしどし海外に出た方が良いと思っていた私は、彼の背中を押しました。
ところが時間が経つにつれ、海外の状況も知らないのに、あまりにも自分の対応が無責任ではないかと思われ、少し海外転職のことを調べてみました。
彼が希望するのは、東南アジアの国々。
すると、雇用が不安定だたり、就労ビザの関係でトラブルが生じたり。
それなりのリスクがあることもわかり、今度は急に、それらのリスクに巻き込まれるのではないかと心配になってきました。
一度は背中を押したのに、今度はスカートの裾を踏むようなことをしていけないと思ってみたり、いやいや、リスクがあることは伝えておかなければと思ったり・・。
彼もいい大人。そんなことは十分承知のうえでの相談なのに、相談された自分がアタフタ。
何とも情けない状況に陥ってしまい、かなり気持ちを消耗してしまいました。
いつもは、多少はマシな対応ができるのに、どうも今回はイケてない自分に。
その要因をツラツラ考えてみると・・。
まずは、ここ1か月近くの幽閉状態。
ギブスと松葉杖の身ゆえ、ほとんど外に出ないようにしています。
家のなかだけで過ごす日常では、inputが激減。
自分ではほとんどストレスは感じませんが、どこかで精神的なバランスが崩れているのだと思います。
そして、家のなかにいるこの時間をうまく生かしたいと、先週は、かなり根を詰めて頼まれていた仕事をしました。
資料の整理をしたり、文章を書いたり。
取り組んでいる最中はそれほど感じませんが、やり終えたのちに、どっと疲れるのは、やはり年齢を重ねた証拠かも知れません。
それなのに、ここ数日、水彩画が描きたくて、描いてはいるものの、なかなかうまくいかずに立ち止まることの多い日々。
ギブスから卒業するまでにあと9日。
「それまでにあと何枚描きたい」などと勝手に目標を設けて悪戦苦闘しておりました。
そんなかなり精神的なバランスを崩し、消耗していたところに甥っ子からの相談。
自分の精神的なエネルギーレベルが低くなっているところへ、思い詰めたような彼の声。
だんだんと自分の軸がブレブレになってしまい、そのことで、自分自身が消耗してしまいました。
いつもの自分に戻ったのは、相談して良かったという彼からの電話。
彼の中でまだ結論は出ていませんが、相談して良かったと言ってもらえて、胸をなでおろしました。
誰かの相談に、真剣にのるということは、自分自身の精神的なコンディションを問われますね。
そのことをしみじみと感じた出来事でした。
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私はどこまで行けるのか?自分の可能性について考える。
思いもよらない骨折というアクシデントで、大幅に活動を制限せざるを得なくなった私。
これを逆手に取って、だからこそできることをやりたい!
というわけで、お絵かきに勤しむ日々でございます。
動画やテキストをみながら、風景画、静物画を描き散らかしていますが、描けば描くほど、何か違う!全く違う!ハナシにならん!
「う~む」と唸り、うつむき、天を仰ぐ日々。
「やっぱり、基礎がないからダメなんだ」
「もう少し若ければ、吸収も違ったかも」
「還暦過ぎの手習いでは、もうどうにもならんなこりゃ」
「もともと、センスっていうものがないんでしょう。私には」
などと、弱気になることも。
でもねぇ・・。
画集やテキストをみると、「ああ、こんな絵が描きたい」と思うわけです。
むせ返るような新緑、木洩れ日、ざわざわと揺れる木々の感じ、
岩に当たる波の力強さ、波に揺れる小舟、
古い農家の一軒家、取り残されたトタン屋根の小屋
喧騒のなかにある街の風景、雨に煙る交差点
音や匂いや風の気配が伝わってくるような絵。
そんな絵が一度でもいいから描いてみたい。
そんな思いは募る一方です。
情熱はあっても、力がない。
描けば描くほどがっかりする。
そんな現実を前にして、「いや~、ムリっしょ!」ともう一人の自分が囁く声も聞こえます。
こういう時は、少し離れてみよう・・。
というわけで、ここ数日、お絵かきを封印してみました。
封印してみたらね、「やっぱり描きたい!」
考えてみれば、リタイア後にこんなにやりたいことがあるというのは、幸せなことですね。
純粋に一途に思うものがあるのはありがたいことかも知れません。
現に今だって、ギプスで松葉杖の不自由な生活を、お絵かきが救ってくれています。
そして、「あなたはここまでですよ」と限界を決めることができる人は、どこにもいないはず。
自分の限界を勝手に決めているのはいつでも自分。
本当に、歩みが遅くて、止まったり、ちょっと進んでは戻ったりの繰り返し。
それでもまだ残された時間がある限り、自分がいったいどこまでいけるのか、簡単には諦めず、歩いてみようと思います。
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歳をとったら痩せちゃダメ。ワンサイズアップは叶うのか?
このところのギプス&松葉杖生活で運動量は激減。
ほとんど椅子に座っている生活が続いています。
この生活で、きっと体重は増えるのではないかと思っていましたが、
「なんか、痩せたなぁ。鳥みたいになってきたでぇ」と、夫の何ともショッキングなご発言。
松葉杖に身体を預けている姿が、止まり木にやっとつかまっている、羽毛も生えそろわないひな鳥に見えるらしい(涙)。
「鳥?鳥ですか?」
まぁ、それ以上深くはつっこまず。
「えっ?そう?」と大人の対応。
ギプスを巻いていて、正確な体重が測れないこともあり、しばらく体重測定はパスしていますが、自分でも筋肉が落ちたのははっきりとわかります。
そんななか、痩せた高齢女性は、糖尿病のリスクが高いというニュースが飛び込んできました。
筋肉量が少ないと、食後の血糖を筋肉に取り込むことができず、血糖が高くなるリスクが増えるということのようです。
そして、骨粗鬆症も、体重が軽いと骨に十分な負荷がかからず、骨量が低下することがわかっています。
明らかな「肥満」は、心臓、そして腰や膝、足首に負担がかかり、寿命とQOLを低下させますが、「痩せ」もそれと同じくらい、リスクが高いようです。
痩せている高齢者は、病気など「有事」の際の予備力が少なく、すぐに体力も底をついてしまいます。
ただいま、161.5センチ、体重49キロ(多分)BMIは18.8
BMIは18.5以上が普通体重ですから、ギリギリ「普通の範囲」ではありますが、最も病気になりにくい標準体重は57.4キロ。
あと8.4キロほど足りません。
そして、体重を増やせばよいというのではなく、肝心なのは筋肉量。
いや~、8キロの筋肉といえば、鶏むね肉16枚分!
キャーッ!! 考えただけでもクラクラします。
それにしてもこれでも学生時代は、プクプク、コロコロとふくよかな体型。
ダイエットに夢中だったころもあったのに、逆ダイエットに取り組む日が来るとは・・。
筋肉量を増やすには、運動は不可欠ですが、食事量、摂取カロリーも増やす必要があります。
「がっつり食べて、しっかり運動!」
これが、しばらくはスローガンになりそうです。
若いころは、Lサイズだったのが、Mサイズになり、最近はそれでもガバガバ。Sサイズを求めることが多くなってきました。
年齢とともに、身体が縮んできています。まさに老化ですね。
さてさて、SサイズからMサイズにアップすることは可能なのでしょうか。
この貧相な肉体の改造に本気で取り組まなければと思う今日この頃です。
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たかが部活、たかが仕事。自分が生きる世界は他にもあると思えることが自分を救う。
昨日の、日本大学アメリカンフットボール部の選手の会見。
多くの方が憤りを感じ、愕然とし、そして重大な過ちを犯したにせよ彼の勇気に拍手を送ったことと思います。
「つぶしてこい」
「できなかったじゃ、済まされないからな」
そんな会話はまるで任侠映画でみる世界の出来事のよう。
学生スポーツの根底に、こんな景色が存在していたなんて。
日本代表を夢見て、青春をかけていた彼の胸中を思うとやるせない気持ちでいっぱいです。
あの試合の前、彼はずい分と精神的に追い込まれていたようです。
練習に参加させてもらえない。
試合に出さないと言われる。
日本代表にも行くなと言われる。
「干される」という状況が彼を追い詰め、「ここでやらなければ後がない」と思い込むに至ったように思います。
思いつめて、自分を追い込んで、まるで日の丸を背負って突撃するかのような気持ちになっていた彼。
きっと、思いつめて誰にも相談できずにいたのでしょう。
ただ、そんな彼に、どんなアドバイスがあれば、道を引き返すことができたのか考えてしまいました。
誰の言葉も届かなかったのかも知れません。
アメフトのことしか、コーチや監督のことしか考えられなくなっていた彼に、周囲に相談するという選択肢は全く思いつかなかったのかも知れません。
ただ、万が一、アドバイスできるとしたら、何と言ってあげたらよかったのか・・。
「すべてをかけて打ち込んでいるけれど、それはたかが大学の部活。たかがスポーツ。魂を売ってまでやることじゃない。あなたにはこれから長い人生があり、生きる世界は他に無限にある」
私だったら、そう、伝えたい。
「これしかない」「この人に認められなければ後はない」「何が何でもここで頑張らなければ生きられない」
そんな「洗脳」にも似た激しい思い込みがますます視野を狭くさせ、自分で自分を暴走させてしまうような気がします。
これまでも、今でいう上司のパワハラに苦しむ人と多く出会ってきました。
上司に認められないのは自分に非があると思い詰め、上司に認められることに専心し、次第に心が病んでいく。
そして、あるとき、「たかが仕事じゃないか。自分、そして人生すべてを犠牲にしてまでやることじゃない。」と思った時に、その人に大きな転機が現れるのを目にしてきました。
行き詰った時には、「たかが○○」と自分を客観的にみつめ、他の世界に目を向けてみることで、すくわれることも少なくないと実感しています。
そういう意味では、今回のことは、同じような状況にあって苦しんでいる人に、力を与えたようにも思います。
さてさて、何はともあれ、
とにかく今後の彼の人生に幸あれと祈るばかりです。
目を通していただきありがとうございました。
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子世代に介護の負担を背負わせないで逝きたい
朝丘雪路さんがお亡くなりになりましたね。
何とも言えない華やかで、お育ちの良さがしのばれるような立ち振る舞い。
好きな女優さんの一人でした。
最後の日々をご自宅で過ごされたとのこと。
奥様を看取った津川雅彦さんの憔悴ぶりに、胸が痛くなりました。
そんな津川さん。
「すべてに感謝。・・・先に死んでくれたことにも感謝」と述べられたようです。
「なぜ先に逝ってしまったの?」
「自分を残して先に逝ってしまうなんて」というご遺族の声はよく耳にするような気がしますが、「先に逝ってくれてありがとう」というのは、はじめて聞いたフレーズのような気がします。
そこにはきっと、
「娘に介護の負担をかけないでよかった」
「夫として妻を看取るという役割をやり遂げられてほっとした」
というお気持ちがあるような気がしました。
介護は、子どもに担わせたくない
夫婦のことは夫婦で。下の世代に問題は送らない。
そんな生き方、価値観を感じました。
さてさて、私自身も両親は、要介護5と要介護2。
月1度の実家通いを続けています。
周囲にも高齢者を介護中の方がたくさんいらっしゃいます。
叔母は、義理の両親、そして自分の両親、4人の高齢者を介護して20年。
「私の人生は、介護人生」だというのが口癖です。
今や一人の高齢者の平均介護期間は、10年にも及ぶとか。
介護は、「体力、気力、お金」を奪い、親が死ぬか、自分が死ぬかのギリギリまで追いつめられるというお話も。
そしてこの介護。
どうやら、親世代を介護するという営みは、他の動物にはない、人間固有の行為であり、「種の保存」という生物体としての本能にはプログラミングされていない行為であるようです。
ある意味、人間だけが行う介護という営み。
育ててくれた親を世話をするということは、もちろん意味や価値のあることですが、自分自身の生きる力を使い果たしてまでやるべきものではないと思います。
私たち夫婦も、お互いのことは私たち世代でできるだけ完結したいと願っています。
最後は、夫がひとりになるか、私がひとりになるか。
どちらがひとりになっても、機嫌良くひとりで暮らせるように。
そして、独り暮らしが限界を迎える少し前に、施設に入り新しい生活をスタートさせたいと思っています。
子ども世代に負担はかけたくないと思うからです。
ただ、そういえば、我が両親も、
「子供に迷惑をかけたくない」
「おまえたちになるべく迷惑をかけないように頑張る」といつも口にしていました。
父親は、母親が娘に電話をかけることも、「忙しい時に、電話するな!」と咎めていたほどです。
ところが自分が車椅子生活になり、母親が脳梗塞で倒れて以来、些細なことでも「娘、娘、娘」の日々になりました。
あれほど宣言していたというのに!
それほど、老いの孤独や衰えは、自分を律することを難しくさせるのでしょうね。
さてさて、私たちは誰にどのように世話され、看取られて旅立つのか。
できうる限り、子世代、孫世代の手と心を煩わせることなく逝きたいものだと、つくづく話しています。
目を通していただきありがとうございました。
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どんなときがご機嫌?「ごきげんリスト」を作ってみたよ
腓骨骨折から3週間。ギプス&松葉杖生活13日目でございます。
ギプスも巻いてしまえば、「その時が来るまで外せないんだから仕方ない」と覚悟ができ、それなりに慣れてきました。
夫にはいろいろと面倒をかけてばかりですが、私自身はほとんどストレスとも感じず、過ごしております。
さてさて、最近になって同年代の方がお亡くなりになることが目につくようになりました。
「人生は、限られた時間」であることを実感しはじめた今日この頃。
限られた時間ならば、できるだけ「ご機嫌時間」で彩りたい。
どなたかのブログで、以前、「ごきげんリスト」なるものを見かけた記憶がありますが、どなただったのか・・。
どうしても思いだせないのですが、その方に続き、私も、自分はどんな時にご機嫌でいられるのか、ご機嫌リストを考えてみました。
1.体痛みや不快な症状がないこと
これはどちらさまも同じですね。
2.よく眠れること
美味しいものを食べられないことより、眠れないことのほうが私にとっては深刻です。眠れない時は、いつかは眠くなるだろうと目を閉じていますが、ぐるぐると頭が働いて、いつまでたっても眠れない。その時間が苦手です。今のところ、松葉杖生活で全く全身運動ができないでいますが、かえって二本の杖で移動することで疲れるのか、行き倒れるように朝まで眠っています。それだけで幸せです。
3.小さな達成感を積み重ねること
毎日、「今日はこれができた」という達成感を確実に欲しがるタイプです。このブログも、毎日アップすることが小さな達成感につながっています。水彩画を描いたり、お料理をしたり、文章を書いたり。自分の好きなことに没頭し、「今日はこれができた!」と思えるだけで、ご機嫌度はアップです。自己満足の極致ですが、自己満足ってなんて楽しいんだろうと思う日々です。
4.雑念に支配されないこと
とても雑念に惑わされることの多い人間です。気合を入れていないと、ついつい意識が過去のことや未来に向いて、妄想モードに入ってしまいます。今考えても仕方がないとわかっているのに、気が付くとボーッと考えていて、思わず独り言。怪しさ満載です。
こうした雑念に支配されず、今、この時、自分がやりたいことに没頭できている時間は、我ながらご機嫌です。
5.やるべきことを溜めない
やるべきことが片付かないで溜まってくると、不安な気持ちになります。そして、「やらなくちゃ」と焦ります。若いころは、お尻に火がつくどころか、チリチリと燃え始めなければエンジンがかからないでいたのですが、最近は、「何かに追われる」ことが辛くなってきました。先手先手で物事が片付いていくときに、ご機嫌度もアップします。
さてさて、勢い込んで「ごきげんリスト」なるものを作ってはみたものの、これしか浮かびません。
美味しいものを食べることや温泉でゆっくりすることも好きです。もちろん旅行も嫌いではありませんし、時には友人と過ごすことも息抜きになります。
ただ私の場合、これらは、自分をごきげんにするマストの要因ではどうやらなさそうです。
家のなかで、自分の好きなことに没頭しているのが、一番自分をごきげんにするようです。
実のところ、こうしてリストアップを試みるまで、自分はもっと外交的で外向きの人間だと思っていました。
ただ、きっとこれは、その時々で変わるような気もします。
骨折が癒えたら、その反動で外向きになるかも。
その時々で、自分がどういうときにご機嫌になれるのか、改めてリストアップしてみるのも悪くはない。
皆さんは、どんなときがごきげんですか?
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