「食器は最小限のものしか持たない」という娘さんから感じたこと
今日、60代の友人が、娘さん連れで遊びに来てくれました。
その30代の娘さんは、ご主人と二人のお子さんとの4人家族。
隣市のマンション暮らしです。
その娘さん、我が家の食器の多さに驚いた様子でした。
「こんなにたくさん!すごいですね~」と。
その側から友人が、
「この子の家は、引きだし2段くらいに収まるしかないねん。それも白いのだけ。一番使う頻度が高いものを厳選して、めったに使わないものは、断捨離したんやって」と。
娘さんは、「狭いし、食器を使えば洗うのが大変だし。色は統一しといた方が何かと便利なんよ-」と。
「それでもあれはアカンで。味気無さすぎるわ」と友人。
「ええんよ。ムダなものに時間と労力をかけるなんて、ホンマもったいない」と娘さん。
娘さんは、「持たない暮らし」を志向しているようでした。
そんなこんなで、本日、改めて食器について考えるチャンスをいただきました。
記憶の底に残る食器
皆さんには、食器にまつわるどんな思い出をお持ちでしょうか?
先日、私が小学校6年生の時に引っ越した実家を取り壊すことになり、大量の食器を処分しました。
元来モノの整理が苦手な両親は、縁が欠けた古い古い食器も捨てられずにしまいこんであり、約半世紀ぶりに対面した食器もちらほら。
古い食器のことなど忘れてしまっているかと思いきや、さにあらず。
「あっ、これって、白菜漬けがのっかってたお皿だよね」
「あら~懐かしい!お正月、栗きんとんが入っていた蓋物の鉢じゃない!」
「お父さん、このとっくりで毎晩飲んでたっけね」
などなど、姉と二人でタイムスリップ。
食器を見れば、その時の食べ物、食卓の情景、家族の表情などが自然と浮かんでくるからあら不思議。
食器は、考えていた以上に、記憶の底に留まるものだと認識を新たにしました。
こうして書いているあいだにも、祖父母の家にあった紺と白の水玉模様の、まるっとした湯のみが頭に浮かんでいます。
高齢者施設の食器の寂しさ
自宅に残されていた食器の数々。
両親なりのこだわりや愛着の詰まった食器もあったはず。
ただ今は、80歳も後半となり、自宅を離れて高齢者施設で暮らしている我が両親。
両親の食事の場面に同席して感じるのは、その食器の粗末なこと。
もちろん陶器ではなく、病院の食事さながらのプラスティック。
トレーに乗せて配膳されるそれは、まさに「給食」です。
魚の切り身のソテーひとつにしても、プラスティックの皿にごろんと乗っけられているだけでは、箸をのばす気になれない。
料理と食器は常に一体となって、食欲を左右するものだと再認識しました。
我が家の食器事情、
私たち夫婦、衣服にはほとんどこだわりはありませんが、食器には少々こだわりがあります。
たとえ、きゅうり1本、ナス1個でも、一番おいしく見えるお皿を選びたい。
食卓に並べた時の「ワクワク」する感じを大事にしたい。
それで、洋皿、和皿、サイズもあれこれ。
鉢物から平皿。そして色も白、藍、黒、その他もろもろ。
「〇〇焼き」などという高価なものはひとつもありませんが、「これにはあれがいいかな?」と考えるのも楽しみのひとつ。
とっかえひっかえ使っています。
それは、年々、「目で食べる」要素が大きくなっているからかも知れません。
腹ペコで、一心不乱に焼肉に食らいついていた若かりし頃は、食器など目にも入らず、子育てと仕事に奔走していた頃は、「このナスにこのお皿」などと、そんな悠長なことは言っていられませんでした。
時間的に余裕のできた今だからこその楽しみです。
「食器は必要最小限のものしか持たない」という友人の娘さん。
きっと、今のライフスタイルにはそれがピッタリなのでしょう。
ただ、きっとこれから先、「食」に対する考え方、「食」の楽しみ方も異なってくるのではないでしょうか。
その時には、食器も増えていくかも知れません。
食器とは、
料理と一体となって食欲を左右するものであり、
またその人のライフスタイルや価値観を色濃く反映し、
何年たっても人の記憶の底に残っていく存在でもあるのだなぁと
そんなことを考えさせられたひとときでした。
目を通していただきありがとうございました。
あしあとを残していただけると励みになります。