還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

またまた、スーパーで事件は起こっていた。結局、ナイスなおっちゃんになれなかった。

先日、セルフのうどん屋さんで、3歳の女の子が、うどんのつゆを自分でつけるつけないをめぐって、大号泣。

その顛末を、記事にしました。

yuuhinooka.hatenadiary.com

 

そして、本日、スーパーマーケットで、入店からレジを終えるまで、お子さんの店内に響き渡る悲鳴に近い泣き声を聞き続けるという出来事に遭遇しました。

 

 

それは、11時を少し過ぎたころ。

あるスーパーに買い物に立ち寄ったところ、入店直後からお子さんの泣き声が聞こえていました。

「子供が泣いてるけど、そのうち泣き止むだろう」と買物を続けていましたが、泣き声は小さくなるどころか、時折悲鳴に近いものが。

どうやらお肉売り場から聞こえてきます。

 

ちょうど、豚肉が欲しかったこともあり、肉売り場に近づいてみると、いました!泣き声の主。

アンパンマンのカートに身をよじるように座っていた彼女は、1歳半から2歳ぐらいの小さな女の子。

カートを押しているのは、たぶんお母さん。

さほど生活に疲れた雰囲気はなく、20代後半から30代と思しき、地味な印象の女性でした。

 

「あらあら・・。お母さんも大変だな」と、そんな気持ちでいたのですが、どうも様子がおかしい!

このお母さん、子どもがぐずって泣いているというのに、全く意に介さぬ様子で、両手にお肉のパックを持ち、左右の商品を見比べてじっくりと品定めしているのです。

 

「どうしたの?」と声をかけるでもなく、子どもに目をやるでもなく、子どもが泣いているのが聞こえていないのではないかと思うほど、表情ひとつ動きません。

そして、泣く我が子と周囲への気兼ねから、買物を手早く済ませようという気配もなく、お肉の次は、ソーセージの品定め。

お子さんは、身をくねらせ、店内に響き渡るような声で泣くばかり。

どんなに泣いても、お母さんは全くお子さんに関わる様子はありませんでした。

 

お客さんやスーパーのスタッフは、みな、時折、チラッと視線を送りながらも、何でもない素振りをして買物や作業を進めていましたが、きっとお客さんは、泣き叫ぶお子さんがかわいそうで、「一刻も早くこの場を立ち去りたい」そんな気持ちになっていたと思います。

レジを終えたお客さんの誰もが、帰り際に泣き声の方向を振り返っていました。

 

育児に疲れているのかな?

もう、お母さんもいっぱいいっぱいなのかな?

いろいろ思うことはありましたが、育児疲れならば、お母さんの表情がもっと険しくてもいいはず。

イライラするのならば、子どもを叱ってもいいはず。

でも、そのどちらもなく、まるで子供の存在を完全に切り離しているよう。

これは、ひとつのネグレクト?

そんなことも思いましたが、ネグレクトならば、自宅に置いて買物に来るはず。

連れてきているということは、そうでもないのかな?

 

こんなに身体中で、今あるすべてを出し切り、涙と鼻水で訴えているのに、助けを求めているのに、お母さんからも、誰からも何の反応も得られないお子さんの気持ちを思うと、お子さんが不憫でなりません。

こんな辛いことが、あっていいものか・・。

 

あれこれ思いつつ、さて、どうするか。

先日のうどん屋のおっちゃんのように機転を利かせられたら良かったのですが、結局、その場を離れることしかできませんでした。

 

それは、

声をかけて、ますますお子さんに泣かれるのではないかと不安に思ったこと。

ヘタに声をかけて、「どうしてこんなに泣かせるの?」とお母さんを非難しているように受け取られてはいけないと思ったこと。

周囲のお客さんやスタッフの視線が集まることにプレッシャーを感じたこと。

そんな、つまらない、いくつかの気がかりがあったからです。

 

ひょっとして、大阪のおばちゃんなら、

「どないしたん?アメちゃんやろか?」と何気なく声をかけたかもしれません。

 

あれからお母さんと女の子はどうなったんだろう?

昨日は、そんなことがずっと頭から離れませんでした。

それにしても不思議なお母さん・・でした。

 

 

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還暦夫婦、ペット亡き後、次なる愛し子を迎えてもいいんでしょうか?

我が家の4歳と5歳になるわんこたち。

今はまだ老化の影はなく、元気でエネルギッシュです。

トイレにも、お風呂にも、もれなくついてくるストーカーぶりに、朝から晩まで目を細め続ける私たち夫婦。

どこに行くにも、基本、わんこ連れ。

夜は同じお布団にくるまって寝ています。

 

ご近所にも、愛犬家がいっぱい。

大型犬あり、小型犬あり。

いつも朝の散歩でご一緒していたラブラドールのももちゃん。

我が家のわんこたちが吠えても声ひとつあげず、一緒に遊んでくれたももちゃん。

実は、そのももちゃんと、ここしばらく会えなくなっていました。

聞けば、10歳を迎えるももちゃんは、最近心臓の具合が悪化しているのだとか。

少し歩くと、ハーハーと息切れがして動きたがらず、外に出るのはトイレの時のみ。

「暖かくなったら、また遊べるといいね」

そんなことを夫とも話していました。

 

そして、そのももちゃんと、先日、久しぶり会えました。

会えたのですが、ももちゃんは以前のももちゃんではなく、数歩歩くのが精いっぱい。

ヨロヨロと数歩前に進むと、その場に倒れ込んでしまいます。

痩せたからだが何とも痛々しい・・。

 

「あら、ももちゃん!」と駈け寄って飼い主さんの顔を見上げると、すでにうるうると涙ぐんでおられました。

「外に出たがって・・。もう、ほとんど歩けないのにね」と。

私も思わずもらい泣きです。

本当に、動物は、「痛い、辛い」と訴えることもせず、「どうしてこんな病気になったのか」と嘆くことも八つ当たりすることもせず、ただひたすらうずくまって苦しみに耐え、その時が来たら虹の橋を渡っていきます。

その健気さを思うと、胸が潰れそうになる私。

先代のわんこを亡くしたことが蘇ってもきました。

 

「もう、この子で終わりにしよう、そう決めてるの」

以前、同年配の飼い主さんがそうおしゃっていました。

朝、晩のそれぞれ1時間のお散歩を欠かさず、旅行にもよくももちゃんを連れて行っていた飼い主さん。

「ももちゃんがいなくなったら寂しいだろうね」

そんなことをつぶやく私に、

「わんこのいない生活は考えられないなぁ」と夫はしみじみ話していました。

 

そこで、「我が家はどうするご予定?あと10年もたって、見送ったら、私たちは70と72歳。わたしたちも、最後かなぁ」

そう問いかけてみると、

「もうあと1クールくらいはいけるだろう」と夫。

大型犬は体力的に無理。迎えるならば小型犬。

でも、小型犬の寿命は、15年程度と大型犬に較べれば長寿。

二人元気でいても、見送る頃には、85歳は超えています。

それはかなり難しそう・・。

保護犬や老犬を迎えるという選択肢もありますね。

 

これからは、犬と飼い主の関係においても、老老介護が増える時代。

我が家でも、責任をもって命を預かることのできる期限を真剣に考えなければならないときが早晩、やって来るようです。

 

 

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両親の「経済寿命」はあと7年半。だからどうする?それからどうする?

父親が入居しているサービス付き高齢者住宅の契約更新の日が迫ってきました。

更新は、4年に1度で、今回が初めて。

夫婦二人部屋に入居していたものの、一昨年末に母親が倒れ、昨年母が有料老人ホームに入居。

現在父親は一人暮らしです。

夫婦二人部屋から一人部屋に転居すれば、家賃や管理費はかなりお安くなるのですが、母親の思い出のつまったこの部屋を出るのは父親が納得しない。

かくして、家賃その他は二人分のお支払いとなっています。

 

そのうえ、要介護度5の母親の一か月分の費用もかなりの額。

二人合わせた年金では、大きく不足するため、自宅を売却し、生活資金をプールすることにしました。

すぐに買い手がついたのはラッキーでしたが、何分、猫の額ほどの土地。

古家の解体費用を差っ引いた残りは、大した金額にはなりませんでした。

 

といっても、売却直後は、「まぁ、これで何とかいけるでしょう」と胸をなでおろしていたのですが、どうもここに来て雲行きが怪しくなってきました。

というのも、家賃が値上げされ、年金は減額。

そして、父親がコンスタントに月10万円おこずかいを使うというのも予定外でした。

姉がこの1年の支出を計算したところ、あと7年半で貯金は底をつく見込みとか。

 

父親は、あと数か月で90歳。でも、癌や心臓病といったさしたる持病もなく、認知機能はますます怪しくなってはいますが、本人は、100歳まであと10年頑張るご予定とか。

母親は、スタッフの揃った医療対応型介護施設で手厚いケアを受け、胃瘻から必要な薬剤と栄養が注入されて、体調はすこぶる良好。

とても幸せそうで、肌の張り、ツヤも良く、微笑む母を見ていると、まだまだお迎えの順番は来なさそう。

 

この、7年半という微妙な期間をどうみるか。

父親のおこずかいを減らし、家賃のお安い「一人部屋」に移ってもらうのか、はたまた、この歳になってダウンサイジング命じるのは忍びなく、残された命の長さを推察しつつ、ギリギリまでこの生活を保つ方向で考えるのか。

今のところ、決め手になるような「何か」があるわけでもないので、何となくあと数年間は様子見になりそうな気配。

 

もしも、両親が7年半という経済寿命を超えてそれなりに元気でいたら、姉と私で支えることになるでしょう。

ただ、年金生活となった二人にそれだけの力があるかどうか、見通しはお寒い限り。

しかし一方で、経済寿命の伸展をはかるべく、将来を見越してダウンサイジングに踏み切りっても、父親が7年半以上生きるという保証はなく、ひょっとしたらQOLが低下したまま、予期せぬ幕引きとなることも。

その時には、「こんなことなら、もっと豊かな生活を送らせてあげればよかった」と後悔するかもしれません。

 

健康寿命」と「本来の寿命」そして「経済寿命」。

その3つが同時に尽きるのが理想ですが、それは本当に難しい。

健康寿命がすでに尽きた両親の、「本来の寿命」と「経済寿命」のバランスをどうはかっていけるのか、認知機能の衰えた両親の判断が期待できないなかで、子供に課せられた課題は、かなりの難問です。

 

 

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運転免許返納からの次なるステージはシニアカー。大渋滞にご用心。

当地は、最も近いコンビニまで10キロ以上。

最寄りのスーパーまでは14キロ。

公共交通機関のコミュニティーバスは、1日に2往復のみという立地により、車がなくては暮らしていけない「田舎」です。

一家に車は2台以上が普通。

高齢の方も、ギリギリまで運転免許を手放さず、85歳が平均的な運転卒業年齢のようです。

 

認知機能が低下したり、手足が不自由になったり、視力・聴力が衰えて、泣く泣く運転免許証を手放したとしても、やっぱり自分で自由に外に出たい!

それがお年寄りの偽らざる心境なのでしょうね。

そこで当地の高齢者の方々の間で脚光を浴びているのがシニアカー

充電式で動く、「電動車いす」の進化系です。

 

昨日は、新緑が美しい晴天の一日でした。

農家では、そろそろ田植えの準備に忙しい時期を迎えています。

田植えと聞いて、じっとしていられないのが高齢の方々。

「ちょっと田んぼの様子を見に行きたい!」

ところが、お家の方は大忙しで、それどころじゃない。

そこで、シニアカーでお出ましになる方の多いこと。

 

昨日、時刻は午後3時。買物からの帰り道、近道しようと農道を通ったその時、カーブの先の道の真ん中に、シニアカーに乗ったおじいちゃまが。

お歳の頃は、80歳代の後半かと。

年季の入ったクボタの帽子をかぶり、作業着風のジャケットをお召しになり、悠々とシニアカーで走行中。

反対車線の交通量もいつもより多く、軽トラックがひっきりなしに通るではありませんか。

「いや・・、困ったな」と夫。

抜くに抜かせず、ふと気が付くと、後方にはピッタリと2台の車が。

 

このシニアカー、最高時速は6キロ。まさにノロノロといった感じ。

お耳が遠いのか、全く背後の車に気づく気配もなく、ひたすらノロノロ。

クラクションなど鳴らしたら、驚いたショックで何事か起きそうで、それも憚られ・・。

「このシニアカー、途中で突然、充電が切れるってこと、ないのかな」

そんな不穏なことをつぶやく夫。

 

「まっ、ここは諦めて、ゆっくりいきましょう」

「そうだな、急いだってしょうがないなぁ」

そんな会話を交わしつつ、しばしシニアカーに先導されることに。

後方の車はさらに増えているようでした。

 

結局、シニアカーは、とある田んぼのあぜ道へと進み、先導車から解放された私たちは、「やれやれ・・・」。

季節がよくなったこの季節。これからしばらくは、シニアカーに厳重な注意が必要です。

細い路地から飛び出しはもちろんのこと、道の真ん中で立ち止まるなんてことも。

実は、知り合いのお父様が、先月シニアカーから転倒し、大怪我をしたばかり。

足元が不安定な田舎の道は、シニアカーには無理があるようですが、それでも「自分で外に出たい」という高齢者の気持ちは断ち難く、じわじわとシニアカー人口は増えているようです。

 

それにしても、やっと運転免許証を手放したと思ったら、今度はシニアカー

「危ないったらありゃしない!」というお家の人の声が聞こえるようです。

せめて、域に住まう者として、そんな高齢者とご家族の存在を念頭に入れ、優しい運転を心掛けなければと思います。

いつかは自分も通る道。

 

 

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昨日、うどん屋で事件は起きた。誰にだって意志がある。3歳児の怒り大爆発!

昨日、近くのセルフのうどん屋さんへ夫とランチに出かけました。

土曜日のお昼は、保育園つながりでしょうか、小さなお子さん連れのファミリーで大賑わい。

いつもは、高齢者か建設工事関係の方が無言でうどんを啜る店内は、子供の声で溢れかえっていました。

 

一緒に入店してきた4家族。

お子さんたちは、これからお出かけの予定があるのでしょうか。どの子もテンション高め。

「ボク、きつねうどん」「私、これがいい!!」と口々に叫び、パパとママは、「わかったから静かにしてっ」と周囲を気にしておられました。

そんななかに、ニコニコとひとりの女の子。

夫が気に入ったのか、人懐っこそうな笑みを浮かべては、ママのスカートに顔を埋めていました。

「いくつ?」との問いかけに、小さな指を3つ立てて、「三歳」と。

その女の子のお望みは、「冷たいの」。

お兄ちゃん、お姉ちゃんとともに、冷やうどんの小を注文。

小上がりの座卓に、一家5人、無事うどんをゲットして納まったのでした。

 

そして、食べ始めたものの、そこからが大変。

つゆの入ったそばちょこ(うどんだからうどんちょこ?)に、自分でうどんを入れ、大人気分で食べるというのが女の子のちょっとした夢だったのでしょうか?

ママがうどんをつゆにつけようとするのを断固拒否!

「自分でやる!!、自分で!!」とママの手を払いのけ、自分でしようとするものの、当然箸でもフォークでもうまくいかず、最後は5本箸。

つゆにつけて啜り始めたものの、どうやらこれではうまくいかないと思ったのか、立ち上がって啜るつもりが、立ち上がってもうまく啜れない。

つゆのついたうどんはあちこち放物線を描き、その都度、おつゆのしずくをまき散らすという結果に。

パパとママの顔は歪むものの、本児は満面笑みの得意顔。

 

そこでママが、「ダメ!」と一喝し、ある行動に出ました。

本児の冷やしうどんを別のお皿に移し、そのうえからおつゆをかけて、「ほら、食べなさい」と本児を座らせ、差し出したのでした。

それを見た本児、「ギャーッ!」と叫び、「イヤだイヤだっ!」「ちがう~っ」とママの余りの理不尽な行動に滝のような涙で猛烈抗議。

身体をくねらせ手足をバタバタさせて、イカになり、タコになり、畳に突っ伏して怒りを爆発。

斜め前のテーブル席でつぶさに事の仔細を見ていた私たちはもちろんのこと、店中のお客さんが一斉の注目する事態に発展したのでした。

あわてたパパとママが、本児を抱き寄せ、とりなそうとしても、全く通じず。

お兄ちゃんとお姉ちゃんだけが、「また始まった」とばかりに、お行儀よくうどんを啜っていたのが印象的でした。

 

そこへ助け舟を出したのが、隣のテーブル席で、これまた冷たい天ざるうどんに箸つけようとしていた初老の男性。

「これにつけて食べたいんか。これで食べ。おっちゃんのやるわ」とおつゆを差し出したのです。

本児は、それをチラッと見るなり、すぐさま小さな手を出して、「これこれ、これなのよ」とばかりに受け取ろうとするではありませんか。

当然、すでに涙はなく・・。

 

「すみません。ありがとうございます」と恐縮するパパとママをよそに、今度は大人しく、かつ神妙に冷うどんにつゆをつけて食べ始めました。

店内、「やれやれ」という感じで、それぞれが各自のうどんに取り組み始めたのでありました。

 

店を出てから、

「大人みたいに、そばちょこにうどんを入れて食べたかったんだろうなぁ」と夫。

「ちょっと、大人気分でわくわくするんだろうね」と私。

3歳の子供の気持ちわからなくもないけれど、パパ、ママも本当に大変。

「わかるわ~、お皿に移してつゆをかけたお母さんの気持ち。ホント、わかるわ~」とつぶやく私に、夫は、

「いくら小さくても、自分のうどんは自分のうどん。勝手にどうこうしてはいかんのだろうなぁ。小さくても、はっきり自分の意志がある。怒ってたなぁ。すごかったなぁ。傷ついたんだろうなぁ。子どもはすごいなぁ」と、子供の抗議に、いたく恐れ入っておりました。

そして、話題は、子育てから介護に発展。

「そうだよね、子供だけじゃなくて、認知症のお年寄りなんかも一緒だね。介護する側は、自分の都合ですすめたくなるけど、その人のやり方、意志を大事にしなくちゃいけないんだろうね」

「まっ、そういうこっちゃなぁ。」とうなずく二人。

 

それにしても、隣のおっちゃんのナイスなフォロー。

なんて機転が利いて、かつ優しいんでしょう。

地域みんなんで子育てするって、きっとこういうことかも。

唖然とするばかりだった夫と私は、そのおっちゃんに「ヒーロー大賞」を心の中で授与したのでありました。

 

 

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「いらない」ときちんと断れる人ですか?断るコミュニケーションを考える。

押し売りや勧誘の類。

自慢ではないけれど、脇を固めて断固断る自信があります。

ただ、相手がご近所や友人の場合には、未だ修行中。

関西のおばちゃんは、なかなかにして手強い・・。

今日はそんなお話しです。

 

さてさて、今年も筍の季節がやってきました。

当地では、「筍、いらんか?」が挨拶がわり。

昨今、竹藪は猪、イノブタの住処になっているようで、早く収穫しなければ、「ヤツらに取られる」そうです。

かくして、筍の収穫に一層力が入り、食べきれない場合は、ご近所、友人におすそ分けというのがセオリー。

 

筍は、季節感が感じられ、好きな食材のひとつです。

ただ、皮を剥き、あくを抜く下処理にかなりの時間と労力がかかり、夫との二人暮らしでは、美味しくいただける量も限られています。

初物の頃は、ありがたくいただいていたものの、バチ当たりなことに、5回目、6回目と度重なるうちに、だんだんと「もう、筍はいいね」という心境に。

 

そんなころに、「筍、いらんか?」の声。

「えっ!また筍・・」と少々口ごもっていると、「ほなここに置いとくで」と玄関先に立派な筍。

「いらんか?」と言われた時に、即座に「いらん」と意思表示しなければ、それは「いる」ということになるもよう。

関西のおばちゃんは、かなりグイグイいらっしゃる。

 

でもねぇ。相手が好意で譲ってくださるというのに、即座に「いらん」と返すのは、どうも気が引けるではありませんか。

そんなときに、目の前でお手本を示してくださった方が。

 

「筍、いらんか?」の声に、間髪を入れず、

「いらん、いらん。筍ぎょうさんあんねん。昨日ももらって、あくを抜いたとこやねん。」

「ほな、いらんな。よっしゃ。またいるようになったら言ってな」

「ありがとう。また言うわな」

 

それは、何とも爽やかで、あとくされがなく、双方が気持ちよくなるコミュニケーション。

なまじ、「ありがとうございます。」などと喜んでいるかのような曖昧なことは言わずに、即座に「いらん」と意思を述べ、それから「いらん」と述べたことの理由を言えば相手も納得。

 

そして、先日はこんなパターンも。

「筍、いらんか?」

「筍って生やろ?あく抜きしたやつならもろてくけど、生はいらんわ。」

「そりゃ生やわ。今朝、掘りたてのやつ。でも、生はいらんのやろ。ほな、あく抜きしといたげる。明日、家に取りにおいで。」

「ホンマ、ありがとう!あつかましゅうてごめんな」

「ええよ。捨てたらもったいないやんか。ほな、明日」

 

とにかく、当地のお姉さまは、何かにつけ直球勝負。

「いる」か「いらんか」。

いるものはいるし、いらないものはいらない。

いらないけど、断りにくいとか、欲しいけど頼みにくいというグレーゾンは基本なし。

慣れれば、そんなコミュニケーション、とっても楽なのだろうと思います。

 

この技を使いこなすには、瞬発力が必要。

ボーッとしていると、タイミングを逃してしまいます。

「いらん」とまずは口に出す。

 

筍の季節、これから細い破竹が出回る頃まで、「いらんか?」の声は続きます。

でも、何でしょう。

この率直なコミュニケーションを使いこなすには、ただ言葉だけの問題ではなく、大げさに言えば、生き方を変えないと、お姉さまの域には達しないのではないか。

そんなことを感じる日々です。

 

 

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おっさんのおばさん化が進んでいる!

昨日のこと。

久しぶりに、少し離れたマクドナルドに夫と寄ってみました。

時刻は、平日の午前10時。

「この時間は、きっとガラ空きだね」

そんなことを話しながら入店したものの、広い店内のテーブル席の半分は、お客様がすでに座っておられました。

少し驚いたのは、ほとんどが初老から老年の男性。

お一人さまは少数で、7~8人の団体様から3~4人の小グループまで。

なかには、窓際のカウンター席にお二人並んで、おっちゃん二人が顔を寄せ合ってコーヒーを啜る姿も。

あちこちのテーブルからは、明るい話声が響いていました。

 

さしずめ、女性ならば、こじゃれたカフェでお茶をするということなのでしょう。

おっちゃんたちには、こじゃれたカフェは、少し敷居が高い。

10時半までなら、格安のモーニングが提供されるマクドナルドは、おっちゃんたちの朝の社交場として活用されているようでした。

 

「おっちゃんたちもやるねぇ」

「男は群れない・・そう相場は決まっていたもんだけど、世の中変わったなぁ」

「そうねぇ、朝の散歩のおっちゃんたちも楽しそうだものね」

そんな会話を交わす私たち。

 

実は、自宅の前を、毎朝散歩コースとしているおっちゃんたちのグループがあります。

メンバーは5人。

みなさんリタイア組。

おしゃべりをしながら連れだって歩き、道ゆく人に明るく挨拶。

小一時間も歩くと、お決まりのベンチで休憩。

そして、おしゃべり。

ひなたぼっこをしながら、これまた小一時間ほど。

 

昔なら、これをご近所の井戸端会議と呼んだのかもしれません。

女性の、それもおばさんの専売特許のように称されていましたが、当地では、今やおっちゃんたちの大切な朝の日課となっています。

 

「おっちゃんが、だんだんおばさん化してきたなぁ」と夫。

「いいことだね。」と私。

 

というのも、母が、「主人在宅ストレス症候群」でずいぶんと苦しんだからです。

父は、「男がそんなことできるか!」という典型的な亭主関白。

朝、どっかりとリビングに腰を下ろすと、「お茶!」、「飯!」、「新聞!」と叫び、ほとんど外出しようとはせず、母が出かけようとすると、「何時に帰ってくるんだ」「どこへ行くんだ」と細かく詮索。

「一緒にいつだけで息が詰まる」と母はよく泣き言を言っていたものです。

 

10年ほど前でしょうか。定年後の男性が、「払っても、払って奥様についてくるぬれ落ち葉」などと言われた時代もありました。

「定年後をどう生きるか」を扱った本も多く出版されたように思います。

当地は、封建的な雰囲気が残る田舎の小さな街ですが、それでもその頃に比べると、世の中は大きく様変わりしていることを実感しています。

 

おっちゃんがおばさん化し、おばさんがおっちゃん化する。

男性も育児休暇をとる時代になり、男性介護者も増えてきました。

同じ服を、20代の若いお嬢さんも70代のマダムも自分流に着こなすようになり、ジェンダーや年齢の境界がずいぶんと薄らいできたように思います。

あと10年もすれば、さらにさまざまな境界が曖昧になることでしょう。

 

どんなボーダーレス社会が到来するのか、皮膚の色や言葉の境界もなくなるのか、経済格差はどうなのか、とりとめもなく夫とおしゃべり。

でも、一番大切なことは、性別や年齢にとらわれない柔軟な自分自身であること。

そんな結論に落ち着いたのでした。

 

 

 

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