還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

人と自分の境界をはっきりさせて「心配」するよりまず行動。

昨年の今日、私は、甲状腺乳頭がんで甲状腺全摘手術を受けました。

あの手術からちょうど1年が経ち、昨日は、術後1年の定期健診。

結果はおかげさまで「異常なし」。

甲状腺ホルモン剤を毎日服用する以外は、術前と何ら変わらない生活を送っています。

これで、乳癌とともに、無事に甲状腺癌2年生に進級することができました。

 

ただ、悪性度の低いものとはいえ、癌は癌。

少ないながらも、再発や転移の可能性はあり、免疫力を落とさないよう、心がけなければと気を引き締めています。

免疫力を落とさないようにするためには、メンタルを良好に保つことが大切ですが、それを考えるとき、いつも亡き義母のことを思い出します。

 

義母の口癖は、「人生、いつも前のめり」、「心配なんかせん!」のふたつでした。

ふと会話のなかで、「それは心配だねぇ」などと言おうものなら、

「心配?心配なんてしやぁせん!心配して事がええ方に転ぶなら、2日でも3日でも、寝ずに心配するけんど、心配してもどうもならんことは、心配しても無駄じゃし、心配は敵。心配なんてしとらんで、庭に出て草の1本でも抜いた方が、なんぼかマシじゃ」

と、力強く否定したものでした。

きっと、義母なりの不安や心配はあったことでしょう。

ただ、それに負けないように、常に跳ね返して88年の生涯を生き抜いたのだと思います。

 

それにしても、「ただただ心配したって、状況は変わらない」というのはその通り。

対策が打てることならば、やみくも心配にするのではなく、まず行動ですね。

対策のしようがないことは、運を天に任せる。

 

そして、人の問題まで我が事のようにあれこれ思い煩うのも、私の悪いクセ。

もう、30歳を過ぎた子どものことが気になりだして、時々、眠れなくなったりもします。

考えてみれば、それは「私が解決すべき問題」ではなく、「子どもが解決すべき問題」。

人の問題や悩みまで横取りして、あれこれ思い悩んだところで、状況はなにも変わらないばかりか、かえって余計な口出しによって混乱させてしまいかねません。

 

そして、ふたつの癌を体験したのですから、人の心配をしている余裕など本当はないはずです。

常に体力、気力を充実させて免疫力をキープし、チェックを怠らず、自分自身のケアに専念するのが私の仕事。

 

ふと、何か不安がよぎったら、「できること、打つべき対策は?」と考えて、行動に移すこと。

そして、「それは誰の問題なのか?誰が解決すべき問題なのか?」を考えて、しっかりと境界を引くこと。

その二つを心に留めて、「心配なんてしやぁせん!」という義母の精神を受け継ぎたいと思います。

 

 

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ときには、スケールの大きい話しをしよう!

昨日は、地元で月1度開催される里山のお掃除の日。

ふるさとの自然を愛してやまない若きリーダーたちが中心となって立ちあげたボランティア団体に参加させていただいてから4年余り。

中心となって活動しているのは、30代の3人のお子さんのお母さん。

彼女の「ふるさと愛」に感銘を受け、お手伝いをさせていただいています。

 

そんな我がリーダー。

昨日は、浮かない顔で、あるメンバーに相談をもちかけていました。

相談相手のAさんは、60代後半の男性。

私と同じ移住組で、彼も私と同様、彼女たちの姿勢に感銘を受け、お手伝いをかって出てくださっています。

 

リーダーの相談というのは、ボランティア団体を統括する役所の担当者とうまくコミュニケーションがとれないという悩み。

役所内の移動で、新しく着任した担当者は、電話連絡しても不在のことが多く、折り返しの電話もなく、何となく避けられているようで困っているとのこと。

早急に決めなければならない案件もあり、リーダーは困っているようでした。

 

ふむふむとリーダーの話しを聞いていたAさん。

「移動したばかりで、余裕がないんやろうなぁ・・」と理解を示しつつ、「しかしなんやなぁ」とひときわ大きな声で続けました。

「そもそもこの活動は、この地域の自然を大切に守って子供たちに伝え、残していこうっていう趣旨で始まったこと。そして、〇〇さん(リーダー)は、この里山の森の精としてのシンボル的存在なんよ。40年、50年経って、白髪が生えて真っ白になったら、ますます存在感は増すやろなぁ~。そんで、今来てる子供たちも、おっちゃん、おばちゃんになって、子どもやら、孫たちを連れて、この里山に遊びに来る。時代が変わっても、先人から受け継いだ里山をきちんと手入れして、残すべき大切な自然を残す。我々が死んでも、ここの人間の暮らしを守っていく。そういう、息の長い、スケールの大きな話しなんよ。そう思うたら、役所の新しい担当者がどうやこうやって、そんなんどうでもええ話しやわなぁ。そう思わん?」

そんなやりとりのなかで、リーダーに笑顔が戻り、

「そうやねぇ。まぁ、焦らんと、ちょっと様子見ますわ」と応えていました。

 

翻って自分のことを考えてみると、

「冷蔵庫のなかのあれを食べなくちゃ賞味期限が切れちゃう」とか、「明日は生ごみを出す日だから忘れないようにしなくちゃ」とか、視野が驚くほど狭くなりがちなことに気づかされました。

視野が狭くなると、些細なことが気になって、不安になるものですね。

 

目の前のことも大切だけれど、時にはスケールの大きな話しをして、歩む方向を見定めておくことはとっても大切。

過去のことより、そして、今のことより、遠い未来を思い描くこと。

目先のことばかりに視野が固定されないよう、スケールの大きな話しができる自分でありたいと思います。

 

 

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知り合い以上友だち未満の心地よい距離感

昨日、半年ぶりに81歳になるAさんから電話をいただきました。

Aさんは、当地に移住した6年前、同じ移住者の先輩として紹介され、それ以来のお付き合いです。

当初は、ランチに自宅へお招きしたり、ご自宅に伺ったり、夫婦でのお付き合いをしていました。

ところが、ここ数年、85歳になるご主人が腰痛などで入院したり、Aさんも血圧が落ち着かなかったりして、ご夫婦の体調に黄色信号が灯るようになってきました。

私も、両親の介護で気ぜわしい日々。

ご無沙汰の期間が続いていました。

 

Aさんご夫婦は、社交的なカップルで、周りには友人がたくさんいらっしゃいます。

お子さんが遠方で暮らすAさんゆえ、車の運転を担当するご主人が入院中の期間は、すぐにも買い物に困ってしまいますが、そこは近くの友人がサポート。

ごく自然に、Aさんご夫婦のサポート隊が結成され、そのメンバーから、Aさんご夫婦の様子はそれとなくうかがっていました。

 

「何かお手伝いした方がいいのかな・・」

気になりながらも、その時、その時で必要なサポートが届いている様子に安心し、時折お電話して声を聴く程度のお付き合いが続いています。

そのAさんから、久しぶりの電話。

 

「お久しぶりです。どうしていらっしゃるか、お声を聴きたくてお電話しました」

そんな第一声から始まる電話。

ことのほか明るい声に安心し、お互いの近況を報告し合いました。

通話時間は、3分余り。

最後には、

「時々、ミントさんの声を聴きたくなって。声を聴いて、気持ちが明るくなったわ。また、お電話しますね。」

「私も、Aさんのお声が聴けて嬉しかったです。また、お電話させてくださいね。」

「もちろんです。」

そんなやり取りで、電話は切れました。

 

いつも快く買物や通院などのサポートをしてくれる近所の友人たち。

その友人に囲まれて、Aさん夫婦は本当に幸せです。

我が家からAさんのご自宅までは20キロ。

なかなか、日常のサポートはできないのですが、それでも忘れずに、声が聴きたいとお電話をいただけるのはありがたいことです。

 

Aさんご夫婦と私たちは、「友だち」というには、おこがましい。

でも、「知り合い」「知人」というよりは、もう少し近い。

この、知り合い以上だけれど、友だち未満という絶妙な距離感を、とても心地よく感じています。

 

日々のサポートをしてくれる友人の存在は、何より大切。

ただ、少し心細くなったり、寂しくなったりした時に、フトと「電話してみたい」、「声を聴いてみたい」と思う人がいるのは、少なからず支えになるような気がします。

 

これが親子となると、言わなくてもいいことを言ってしまったり、聞かなくてもいいことを聞いてしまって、かえって不安や寂しさを募らせたりしがちです。

いずれは私も通る道。

老いの心細さやさみしさを感じたときに、誰かと「知り合い以上、友達未満」の心地よい距離感でつながれる関係を保っていられたらと思います。

 

 

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コンビニで夫が陳列かごに足を取られて転倒。お店の責任?お客さんの責任?

先日、夫が某コンビニで転倒するというアクシデントが発生しました。

 

事の仔細はこうです。

その日、実家地方から自宅に戻るため、車を運転していた夫は、急な腹痛に襲われ、急遽コンビニのトイレを借りることにしました。

店内に入った夫は、まっしぐらにトイレに急行。

と、思いきや、飲料の陳列棚の最下段に、フック状のもので固定されていた金属製のかごが通路に飛び出していて、脛を打ち付けた夫は、足を取られてその場で両手をつき、転倒しました。

その通路に突出していたかごには、バナナが鎮座していたそうです。

丁度朝の忙しい時間帯。スタッフの方は、レジ打ちで忙しく、どなたも夫の転倒には気づくことはなかったもよう。

先を急いでいた夫は、レジの列に割って入り、詳しい状況を説明するのもはばかられ、店から出る間際に偶然みかけた店長らしき人「かごにつまずいて転んだ」ことのみ告げて、その場を立ち去りました。

 

幸い、脛をすりむいた程度の怪我で大事には至りませんでしたが、目の不自由な方や、杖をついた高齢者の方も来るだろうに、通路を妨げるようにかごが飛び出しているのはやっぱり危ない。

そんなことを話していたら、夫は、自分のこの体験を無駄にしてはいけないとばかりに、本部に連絡してみる気持ちになったようです。

 

「〇月〇日、午前〇時頃、〇〇店に入って・・」と状況を説明し始めた夫。

怪我はすりむいた程度で大したことはないものの、あの陳列の仕方は、危険ではないかと気になって電話をしたと用件を説明。

「折り返し、担当の者から電話をさせます」と一度電話は切れ、しばらくして担当者から電話がありました。

 

そしてその電話。夫のトーンは次第に下がり気味。

最後は、「は・・そうですか。わかりました」と電話は切れました。

夫によれば、

「あの通路に飛びだした商品陳列の方法は、全国標準で、今まで事故は1件もないそうだ。で、これからも『やらせてもらう』そうだ。」とのこと。

 

どうやら、慌てて躓き、しかも転倒までするのは、全くのレアケース。

店の責任というより、来店者側の注意義務が足りなかったということのよう。

考えてみれば、夫は急を要してトイレにまっしぐら。

足元の注意が欠けていたのは確かです。

 

思いもかけない転倒に、「ここにこれがあるのがおかしい」と決めつけていました。

でも、どこにも危険は潜んでいることを前提に、まずは自分の身は自分で守る。

いつもアンテナを張っていなければならない、この当たり前のことを再認識させられた出来事でした。

 

 

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老いた親に、子どもの死を知らせるのは酷ですか?

高齢社会を迎え、平均寿命は毎年のように伸び続けているように思います。

私の身近かにも、100歳を超えた方もチラホラとお見受けするようになりました。

 

親が100歳だとすると、子どもは概ね70代。

70代といえば、まだまだ若いけれど、それなりの年齢であることは確かです。

脳卒中やがん、心筋梗塞などで亡くなってもおかしくはありません。

 

知り合いのAさんは、昨年の暮れに70歳でご主人を亡くしました。

そのご主人のお父様は20年ほど前に亡くなり、今は94歳のお母様が、高齢者施設に入居しています。

寝たきりで、認知機能の衰えはあるものの、重度の認知症というわけではなく、簡単な会話は何とか可能。

Aさんは、ご主人を亡くされた後しばらくは呆然自失の毎日。

義母の元に面会に行くこともできずにいましたが桜が咲く頃を迎え、最近になって、また義母の元に通うようになりました。

 

ところが、「やっぱり辛くて・・」と昨日は、Aさんの声もしめりがち。

実は、ご主人が亡くなったことをお義母さんには伝えていないのだそうです。

面会に行けば、ご主人の話しになり、「〇男が来ない・・」「どうして来ないの?」と尋ねられ、胸が張り裂けそうになるそうです。

 

ご主人の死を伝えないと決めたのは、ご主人の兄と弟。

ちょうどその頃、お義母さんが軽い肺炎で体調を崩していたこともあり、

「そんなことを伝えたら、気落ちしてポックリ逝ってしまうかも知れない」

「寝たきりの94歳にもなる年寄りを悲しませてはかわいそう。」

そんな理由から、伝えないことにしたのだそうです。

友人は、ご主人を亡くした悲しみの渦中にあってそれどころではなく、実の子供が決めたことなのだから、従うしかないと感じていたそうです。

 ところが、伝えていないことが心のしこりになって、面会に行くことが辛くて仕方がないとAさんは言います。

 

「結局、年寄りをわざわざ悲しませることはないって言ってはいるけど、そういう辛いことを面と向かって話したくない、できれば逃げたいっていう子供側の理屈なのよ」

「逃げなの、逃げ」

そう言い切るAさん。

確かに、94歳の老母に子どもの死を伝えるのは、誰もが気が進まない。できれば伝えたくない。それも十分にわかる気がします。

 

もう20年近く前に亡くなった祖母のことを思い出しました。

祖母も、長らくケアハウスに入所し、最期を病院で迎えました。

99歳という、当時は驚くべき長寿。

実は、祖母が亡くなる2年前に、息子(叔父)が60代で亡くなりましたが、祖母には伝えませんでした。

やはり、亡くなった叔父の名を呼び、「あれが来ないんだよ」「あれはどうしたんだろうねぇ」と気にしていたという祖母。

面会に行った家族は、亡くなった叔父の話題が出ないよう、うまくとりなすので精一杯だったようです。

 

大切なことを伝えないことで、本人と家族の間に秘密ができ、最期の大切な時間がギクシャクしたものになってしまうのは哀しいことですね。

ただ、伝えた方がよかったのかどうかは、誰も、そして永遠にわからないこと。

今となっては、誰もそのことに触れる人もいません。

 

寿命が長くなれば、誰もが子供を先に亡くすという「逆縁」の悲しみに直面する可能性をはらんでいます。

さてさて、自分が寝たきりとなって誰かにお世話をされるようになっても、大切な人の死を必ず伝えてほしい、何もできなくても、その人の死を悼んで涙を流し、せめて手を合わせたいと願うのか、それとも、もう悲しいことは知りたくない、できれば知らせないで欲しいと思うのか、自分でもよくわからないでいます。

それにしても、長く生きるということは、つくづく大変。

そんなことを今さらながら思いつつ、せめて今日という日を精一杯生きなければと思っています。

 

 

 

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オシャレに必要なのは、体力と気力、決断力。試着室を出たら、1歳老けた?

ネットでの洋服のお買い物には、サイズの失敗がつきものですね。

その点、ユニクロやGUは、店頭で試着して買えるのが魅力です。

両親の元への通い介護。そのささやかな楽しみは、近くのユニクロ・GUでのお買い物。

先日も、行ってまいりました。

 

お目当ては、ジーンズ。

ここ数年のシーンズの進化は目覚ましいものがあり、ジーンズにこそ、オシャレのセンスが最も現れるとか。

そんなファッション誌からの情報を得て、「神ジーンズ」とまで噂されているハイウエストなストレートジーンズに会いに行ってきました。

 

問題は、サイズでございます。

ある、ファッションコーディネーターさん曰く、オシャレであることの必須条件は、自分の身体にジャストフィットする服を身に着けること。

そして、もちろん試着は必須。普段のサイズがMだとしたら、できればSとLの計3点は試着してみるべきだと力説。

さすがに、どう見てもLは大き過ぎるとしても、お教えに従い、ネイビーのSとMサイズを手に、イザ、試着室へ。

 

日曜日ながら、開店直後のこの時間帯は、まだ比較的お客さんは少なく、試着室もガラガラ。

狭いスペースのカーテンを閉め、まずは鏡で自分の全身を映してみて、もうビックリ。

試着室の白い壁が反射板となって、見えなくても良いところまで、バッチリ、スッキリ怖いほどに丸見え。

顔のくすみ、シワ、シミ、たるみがつぶさに映し出され、一瞬たじろぎ、息をのみつつ、いざ試着。

 

Sサイズは、脱ぎ着するときに、少々腰がひっかかるものの、エイ!と上げてしまえば、ウエストはジャスト。

Mは、脱ぎ着は楽だけれど、わずかに大きめ。

 

さてさて、sかMか。

決断を迫られた私。

試着は、「入る、入らないというサイズの問題だけではなく、きれいにラインが出ているかを見るんだった!」と思いだし、狭い試着室で、腰をひねってヒップを見る私。

身体が固いのか、腰のあたりがもはや攣りそうなのに、よく見えない!

もう一度Sを着ては身体をねじり、Mを着ては身体をねじり、狭い試着室で悪戦苦闘。

「フーッ」

慣れないことをしているせいか、この時点で、なんだかうっすら汗ばんできました。

 

「う~ん、悪くはないけど、ちょっとピッタリ来ないな」

そう思っていたところ、閃いたのは、「色違いを試してみたら?」とのアイデア

このジーンズは、同じ色・サイズでも、そのジーンズごとの個体差があるとの口コミ多数。

それで、ブルーを試してみることにしました。

一度試着室を出て、ブルーのSとMを手に、再度チャレンジ。

ブルーのSは、ネイビ-のSに比べ腰のひっかかりもなくスムーズ。

「あらら、同じSでも違うんだ・・」と一人呟きつつ、またまた身体を捻る私。

せっかくだからとMも試着。

この時点で、うっすら汗ばむから、明らかな火照りを実感。

 

「あー、こりゃ、ブルーのSだな・・・」

疲れた私は、ここで手を打つつもりではありました。

ところが、「でもねぇ、ネイビーの方が手持ちのトップスには合わせやすいんだけど」と呟くもう一人の私。

結局、もう一度、自分が納得するために、再度、ネイビーを試着した私。

なんと、この日、7回目の試着でございました。

 

結局、ブルーのジーンズ、Sサイズ一本を購入するために要した時間は1時間。試着室に籠城すること30分以上。

狭い試着室では圧迫感もあり、待っているほかのお客様がいらっしゃらないかも気になるところ。

体力だけではなく、さまざまな気づかいをしながらの全工程で、どっと疲れが。

 

店の外で待ち合わせた夫は、顔を合わすなり、

「どうしたん?何だか疲れた顔になってるよ~」と。

そして、

「1本のジーンズを買うために、そんなにまでするなんて考えられないなぁ」とあきれ顔。

 

それにしても、オシャレに必要なのは、体力と気力、そして決断力。

試着室は、思っているよりもずっとエネルギーを必要とする場所でした。

 

ただ、自分の身体に合わないものを着続けるほどの時間はなく、これも自分を大切にするひとつの手段。

今度試着室に入るときには、もっと気合いを込めねばならないと実感しています。

 

 

 

 

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尻ごみしないで仕事を引き受ける。今の自分のベストを尽くせばそれでよしとしよう。

本日、実家への通い介護から自宅へと戻りました。

1週間あまり不在にしていた郵便受けをのぞくと、そこに、仕事の依頼状が。

リタイアしてから、何度かお仕事の依頼をいただいていましたが、毎回、「もうリタイアした身なので」とお断り。

いつもなら、早速、断りのお返事を差し上げていたところでしたが、今回は、「やってみようかな」と気持ちが動きました。

 

「もっとアクティブに、攻めの姿勢で過ごしたい」

そんなエントリーを上げたのが昨日。

私のなかでは、本当にグッドタイミング。

こんなことってあるんですねぇ。

自分でも、あまりのタイミングの良さに驚くとともに、運命と言えば大袈裟に過ぎますが、何か、背後に不思議な力が働いているようにも思えてきます。

 

これまで、何度かお誘いをいただいていたのに、お断りしてきたのは、自分がもはや旬を過ぎた人間であることを自覚していたから。

老害

その「老害」に自分がなることに、嫌悪感さえ感じていました。

「人間、去り際が大切」そう思っていました。

「華のあるうちに、スパッと辞める」。そんな生き方に憧れていたのです。

 

というのも、これまで、いろいろな分野の「引退記念講演」の類に多く出てきましたが、そこで感じたのは、「老練の域に達したいぶし銀のような魅力」というよりも、「旬をはるかに過ぎた衰え」。

若いころに一世を風靡したアイデアからほとんど発展もなく、未だに当時の業績を唱える諸先輩に、内心がっかりしたこともありました。

衰えの目立つ上司のサポートに、疲れ果てている友人も数多く、「あのようにはなりたくない」と、若輩者の私は、生意気にもそんな印象をもったものです。

 

その気持ちは、今も変わってはいません。

ただ、60歳の今、もう一度、かつての仕事に向き合ってみようという気持ちが起こっています。

以前のように、がむしゃらに仕事に邁進するのではなく、ひとつひとつの仕事を丁寧に。

きっと、力の衰えを痛感することになると思いますが、それでも、今の自分のベストを尽くせばそれでいい。そう思っています。

そして、もう一度、駆け出しのあの頃のように、謙虚に他者から自分の仕事の評価を受け、「もはや通用しない」、その時には、きっぱり辞めるつもりでいます。

 

どの組織にも属さず、ポストにも就かず、フリーで仕事をしている限り、「老害」になるなんていう心配もありませんね。

仕事から遠ざかっていた6年間は、きっと異なった視点、視野を自分に与えてくれたと信じて、ボチボチと取り組みたいと思います。

 

 

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