還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

写真とはなんと残酷なものかとつくづく思う

昨年末に脳梗塞で倒れた母親。

梗塞の範囲が広く、左半身の自由をほぼ失い、寝たきりとなって現在、有料老人ホームへ入所中です。

幸い、意識レベルは意思疎通が可能な程度には保たれていて、施設のスタッフとの会話もほぼ可能。

ケアを受けると、「ありがとう」と必ず感謝の言葉を忘れない母は、施設のなかでも人気者?とか。

孫と同年代の若いスタッフの皆さんに上手に甘え、面会に行くたびに母の表情が柔らかくなっていくことに、安堵しています。

 

 

母の写真を撮る

先日、私と姉、父親で母の元を訪れた際に、母の写真を撮りました。

長い間、鼻からチューブが入り、手には抑制のためのミトンがはめられていたことを思えば、それらから解放され、少しの間でも車椅子に座っていられるようになった母親は、格段の進歩です。

カメラに視線を合わせることはできませんが、表情は、わずかに笑っているようにも見え、私たちは、母親の写真が撮れたことに満足していました。

 

病気になる直前の母親の写真

そして昨日、ある別の写真を探すためにPCのフォルダーを見ていたら、思いがけず母親が病気で倒れるほんの1か月前の写真が出てきました。

それは先日、老人ホームで撮った時と全く同じポーズ。

椅子にかけ、母親は、軽く膝に手を置いて、カメラをみつめていました。

わずかに微笑んで。

 

「なんと写真とは残酷なものか・・」。

倒れる前の母親は、骨格もしっかりとしていて、髪も黒く、しっかりとカメラを見つめる眼差しには、生命力が宿っていました。

年齢相応の皺やたるみはもちろんありますが、それは、83年間生き抜いてきた年輪でもあり、それらすべてが母親の存在感を彩るものとして傍らにありました。

写真を見ていると、「お母さん」と呼びかければ、すぐに声が返ってきそう。

まさしく、ずっとずっと私のなかにあった「母親」がそこには存在していました。

 

そして、改めて先日撮った母親の写真をみてみると、やはり「別人」のようです。

視点は定まらずに空を泳ぎ、顔も大きく歪み、口元もしまりがなく・・。

髪はほとんどが白髪となり、痩せて儚げな骨格。

生命力というものがほとんど感じられない「老婆」となった母親がそこにはいました。

数か月前には、高齢期の女性だった母親が、今は老婆に。

もしも母親が、自分のこの数か月間の変化をはっきり認識したとしたら、何を思うのだろうかと胸が痛みます。

 

倒れる前の写真を見なければ

一時は生死の境を彷徨った母親が生還し、こうして座って写真が撮れるようになったことを喜んで、それで終わり。

それ以上の感慨はわかなかったように思います。

ただ、元気だった時の1枚の写真は、今との「落差」を強烈に物語り、現実を突きつけます。

「脳が機能不全」に陥ると、数か月後にはこのようになりますよ。

そんな実例を見せつけられているようでもあり、

「人生何が起こるかわかりませんよ」

と人生の不確実性を突きつけられているようでもあり、

母親の元気だった時の写真は、今となってはとても切ない1枚であることに変わりはありません。

 

自分が年老いたとき、写真に何を感じるか

写真がもつ一面の残酷さを感じた私。

自分が年老いて、母親と同じように身体が不自由になった時、

若いころの写真をみて、何を思うのだろうかと。

「ああ、自分にもこんなに輝いていた頃があった」と懐かしく、温かい気持ちになるのか、

「こんな若い頃もあったけど、今は年老いて情けない自分になってしまった」とむしろ

辛い気持ちになるのか・・。

 

私にとっての写真

若い頃の写真は、どれほど素敵な自分が映っていたとしても、それは過去のもの。

過去の輝きを懐かしむよりは、できれば常に今の自分に満足していたい。

そう考えると、私にとっての写真は、たとえ顔の皺が増えシミもでき、体型は崩れていたとしても、できればそこに、若い頃にはない別の輝きを確認できるものでありたいと密かに願っています。

多少の思慮深さや落ち着きや、優しさが感じられ、「今日の私、今の私も悪くはないね」と思えたら、どんなに気持ちが華やぐでしょう。

私にとっての写真は、「過去を懐かしむものではなく、今の自分を確認するもの」。

それは、きっと死ぬまで変わらないスタンスのように思います。

 

病気の母の写真に写る輝きに気づく自分でありたい

そう考えると、脳梗塞で倒れた母親にも、必ずや以前の母親にはない、「病とともに生きる命の輝き」があるに違いありません。

元気な時に母をみるモノサシで見れば、「老婆」としか見えない母親も、その老婆の奥に潜む「生きようとする命」があればこそ、こうして元気でいてくれるのですから。

病気を得たからこその命の輝き、それに気づき、それを受け止められる人としての度量を持ちたいです。

そして、写真を見ながら、「前のお母さんもいいけど、病気と一緒に頑張ってるお母さん、私にはもっとステキに見えるよ」と伝えられる娘でありたいと思います。

 

母親の元気な頃の1枚の写真と、病気になってからの1枚。

2枚の写真を見ながら、溜息をつき、イヤイヤと思い直し、そして、これからを思っています。

 

 

 

 

目を通していただきありがとうございました。

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