甲状腺乳頭癌全摘術から1か月ー思ったほど大変じゃなかったよ~!
4月17日に受けた甲状腺全摘出からほぼ1か月。
今日は、術後初めての診察を受けに行ってきました。
1か月前の今頃は、かなり緊張。
同じ手術を受けた方々のブログを拝見して、「ああ、自分もそうなるのかな」と妄想を膨らませていました。
自分自身の備忘録として、そしてこれから同じ手術を受ける方の参考に多少なりともなればと思い、記事にすることにしました。
関心をお持ちではない方は、スルーしてくださいね。
術前の検査でわかっていたこと
甲状腺の右葉と左葉をつなぐ中央部分に1センチ×1.2センチの腫瘍と、左葉部分に0.8センチ×0.8センチの腫瘍がありました。
病理検査の結果は、乳頭癌。
甲状腺ホルモンの値、腫瘍マーカーであるサイログロブリンⅡは、共に正常域でした。
受けた手術
全身麻酔で、甲状腺を全摘。周囲のリンパ節を郭清し、副甲状腺を首の筋肉に埋め込む手術を受けました。
首の中央に、13センチの傷があります。
手術後の治療(この1か月)
甲状腺を全摘したため、甲状腺ホルモンの補充療法として、チラーヂンSを100㎍。
副甲状腺の機能が回復するまで、アルファカルシドールカプセル1㎍(ビタミンD)。退院後3日目までは痺れを感じた時の頓用として乳酸カルシウム2gを服用していました。
1か月後の検査結果
病理検査の結果は、やはり乳頭癌。リンパ節に1個転移があった他、甲状腺内部にも転移が確認されました。
切除した組織の断端は陰性。取り残しはありませんでした。
・血液検査
甲状腺ホルモン(F4)1.13
甲状腺刺激ホルモン(TSH) 0.859
いずれも正常域。副甲状腺の機能を示すi-PTHも、正常域でした。
ただ、TSHは、甲状腺癌の全摘術後としては高く、身体のどこかに潜んでいる癌細胞を刺激しないためには、0.3以下に抑える必要があるとのこと。
そこで、チーラーヂンSが増量され、一日112.5㎍の服用となりました。
現在の自覚症状
・声の変調
全く日常生活には問題ありません。しいて言えば、大きな声が出しにくい時がたまにあるくらい。
・首の違和感(しめつけ感やひきつる感じ)
手術直後というよりも、術後2週間ほど経って傷が治ってくるにつけ、多少のしめつけ感を感じるようになりました。ただ、何かに集中しているときは、全く気になりません。1日に数回感じる程度です。
・嚥下の違和感
特に水分を呑み込む時に、つっかかるような感じがあります。ただ、それが苦痛ではありません。むせることは全くありません。
・首の動かしにくさ
私の場合、手術直後からほとんどありませんでした。車の運転も、退院直後から問題なし。(本当はNGなんですけど)
今週末の美容院再デビュー、不安なく行けそうです。
・肩こり、首のこり
全くなし。術前と変わりありません。
・傷あと
手術後、マイクロポアテープを貼っています。テープかぶれもなく経過しています。傷そのものは、盛り上がる気配はないのですが、全体にまだまだ「なんだかなぁー」という感じ。まっ、年齢が年齢ですから、仕方ないです。
術前に心配していた合併症も気にならず、体力、気力の低下もほとんど感じません。すべてが、術前の生活のまま。首の傷は、ハイネックのTシャツで隠れてしまうし、誰も気づきません。
今後の受診予定
今回、チラーヂンが増量されたため、次回は1か月後の経過観察となりました。TSHが0.3以下に下がっていれば、チラーヂンSは112.5㎍が維持量となります。
診断が確定してから手術を受けるまで、ネットでたくさんの体験者のブログを拝見しました。知識を与えられ、そして励まされました。
手術、そして術後の経過は、個人差がとても大きいと思います。
「私の場合」に限ったことですが、幸いなことに、まさに「案ずるより産むが易し」。
甲状腺の癌は、お若い方も少なくはない病気。
「甲状腺の癌」と聞いて驚き、不安にかられている方もいらっしゃると思います。
少しでもお役に立てればと思います。
「大丈夫!私の場合はね、思ったほど大変じゃなかったよ~!」
目を通していただきありがとうございました。
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サービス付き高齢者住宅に入居への道のり。押したり引いたり、ピンチをチャンスに
サービス付き高齢者住宅に入居中の父親と、回復期リハビリ病院に入院中の母。
サービス付き高齢者住宅に入居したことによって、母親が入院後も、父親の暮らしが保障され、両親はもちろんのこと、私たち姉妹も、本当に救われました。
もしも父親が入居していなければ、認知機能も衰え、車椅子生活になった父を一人にしておくことはできず、姉が仕事を辞めて同居するか、私が父親を引きとるか。
父親も私たち姉妹も、そして姉と私の家族を含めて、とてつもなくストレスフルな毎日が待ち構えていたと思います。
将来的にどうするか
5年前、母は、その頃から多分認知症を発症していたのだと思いますが、家事ができなくなってきていました。
ゴミの分別ができず、家の中は、悲惨な状況。
料理もままならず、「何を作ったらいいのかわからない」、「お父さんは、怒ってばかりで、ホント、イヤになった。もう死にたい」と泣きながら電話がかかってくることも。
まだその頃は、母の調子にも波があり、比較的元気な時もありました。父も杖こそついていましたが、日常生活には問題がなく、介護度は、「要支援1」。
ただ、姉と私は、ヘルパーさんに入ってもらうことで何とか急場はしのげても、将来的にあの実家にずっと両親が住まい続けることは無理だと話し合っていました。
「快適に過ごせて、日々の生活に必要なサービスが受けられるところに入所してもらいのが、お父さん、お母さん、そして私たちにとっても必要なことだよね」と。
1歩進んで2歩後退
ただ、すんなりと入居に至ったわけではなく、1歩進んで2歩後退。
両親の自宅への執着はかなりのもの。話しを持ち出すそばから、「そんなところに入れられるのはかなわん!」「ここから追いだそうっていったって、そうかいかん!」と怒りだす始末。
「そう、わかった。じゃ、この話しはなしね」とすぐに打ち消しつつ、「ただ、お母さん、ご飯作るのがしんどくなってるし、お父さんもお母さんも、美味しいものを上膳据え膳で食べられた方がいいんじゃないかと思って」と、少しだけ押したりも。
押したり引いたり、引いたり押したりすること半年余り。
その間、ますます母親の状況は悪くなり、「お父さんと別居したい」「離婚したい」「お父さんの世話なんてできない」とたびたび訴えるようになっていました。
そんな折り、自宅からほど近い新築の高齢者サービス付き住宅のチラシが入りました。
姉が、「こんなのできたよ、散歩がてら、見に行ってみない?」と誘ったのが、今居住している住宅です。
百聞は一見に如かず?
そこは、両親がイメージしていた昔の「養老院」とは全く違う現代的なマンション。
まず母親が、「わぁ~、すごいね~」と大きな溜息をつき、「こういうところなら、まっ、入ってもいいな」と父もまんざらでもなさそう。
ただ、その時は、夫婦で入居できる部屋は、その時点ですでに満室。
両親の気持ちが動いたものの、結局入居には至りませんでした。
姉の昇進
少し両親の気持ちは動いたものの、現状は変わらず。
そんな時、定年退職を2年後に控えた姉の管理職昇進の話しが舞い込みました。
姉は、両親に、「管理職になる話があってね」と切り出し、
「35年間頑張ってきた総決算として、この話しを受けたいと思うの。今までのように、お父さんとお母さんのところには行けなくなるし、日曜日も仕事で潰れることも多くなると思うけど、ここはやらせてもらうね」とキッパリ。
「そうかそうか、頑張れ!」と両親。
でも、励ますそばから、「そうか・・、〇子は、これまでみたいには来れなくなるのか」と溜息まじりに呟く両親。
「やっていけるだろうか」不安げな両親の姿がありました。
父親の入院がきっかけに
そして数か月して父親が肺炎で入院。
高熱で動けず、救急車で入院。初めてのオムツ体験。
ポータブルトイレに昇格しても、足元は頼りなく、あちこち汚して看護師さんにお世話になる始末。
怒鳴りつける相手もなく、父親も相当にまいったようです。
入院直後から、姉と私は、「お父さんはあの家に戻ってくるのは無理!」そう決意し、夫婦で入居できる施設を懸命に探しました。
母親も、「お父さんが帰ってきても、世話ができない。どこかに二人で入りたい」と。
ところが、要支援1の二人が、夫婦で入居できる施設がなかなかみつからず、結局ダメモトで、夫が以前ご縁のなかったサービス付き高齢者住宅に問い合わせてみました。
「今、夫婦部屋がひとつ空いています」
これぞまさしく救われた!
父親は、入院していた病院から直接、新しい住まいであるサービス付き高齢者住宅に退院しました。
最初に施設入所の話しをしてから1年3か月が経っていました。
サービス付き高齢者住宅とは
バリアフリー対応で、介護認定のつかない自立の方や要介護状態の高齢者を受け入れている賃貸住宅です。
生活相談員が常駐し、安否確認や様々な生活支援サービスがあり、要介護状態になれば、外部の介護支援事業所のサービスを受けることができます。
父が入居しているところでは、敷地内にクリニック、薬局、デイサービス事業所があり、建物内には、ケアマネさんとヘルパーステーションがあります。
3食の食事がつき、困った時には、コールを押せばヘルパーさんが対応してくれ、夜間の巡回もあります。通院は1分。服薬管理もお願いできます。
あの偏屈で気難しい父親にも、スタッフの皆さんが上手に対応してくださいます。
「お父さん、ここに来られてよかったね」そんな問いかけに
「ほんとうにそうだよ。ここに来てなかったら、あの家で飢え死に寸前で、息も絶え絶えだったなぁ」と父。
今のところ、「いろいろあったけれど、結果オーライ!」という感じです。
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ケアマネさんに学ぶ老父の怒りへの対応
父は、若いころから些細なことで怒りを爆発させる人でした。
それは、時と場所を選ばず。
デパートの食堂で
私が中学生の頃、年末にデパートの食堂で家族そろって食事をすることになりました。
年末の大売り出しの最中で、食堂はごった返していました。
少し待った後、運よくテーブルに案内されましたが、いくら待っても注文した料理が運ばれてはきません。
短気な父親は、待つことが苦手。
「これはマズイ」。私は、これから怒り得る危険を察知しながらハラハラドキドキ。
そしてやはり事件は起こりました。
私たちより後にテーブルに着いた隣のお客様のお料理が運ばれてきたとき、父親がスクッと立ち上がり、ウエイトレスさんに向かい、食堂中に響き渡るような大声で怒鳴り始めました。
「おい!こっちが先だろ!何やってるんだ、バカモン!!この忙しい年の暮れに、ボンヤリ待ってられないんだよっ!順番があるだろ、順番がっ!そんなこともわからんのかっ!」
驚いて、凍りつくウエイトレスさん。
そして、食堂が一瞬静まり返り・・・。
そして次の瞬間、父親は、「もう、行くぞ!」と私たちに合図。
スタスタ出口とへと向かい、母と姉、私は父の後に従いました。
食堂にいたお客さんの視線を一斉に浴びながら。
思春期だった私は、恥ずかしくて恥ずかしくて、この世から消え去りたいような気持ちになったのを覚えています。
老父の怒りは今も健在
先日、父の住む高齢者マンションを訪ねた時のことです。
「ピンポ~ン」とチャイムが鳴り、書類を抱えたケアマネさんとお掃除のためヘルパーさんが入ってこられました。
ヘルパーさんの顔を見た父の顔が明らかに曇り、「今日は掃除はいいですから。また今度にしてもらえますか」と。
自分が自室で過ごしているときに、よその人が自分の空間に入ってくることを嫌う父。
特にガーガーという掃除機の音が苦手です。
困ったヘルパーさんが何か言いかけた時、父が怒鳴り始めました。
「人の家に、ズカズカ入り込んで、ガーガーうるさいんだよ!掃除なんていいんだって、言ってるだろう。やめてくれ~!」
88歳の父。あの頃と変わらぬ勢いでした。
ケアマネさんの対応
ケアマネさんは、そんな近寄り難い形相の父親の脇にしゃがみこみ、視線を下から見上げるようにして父に話し始めました。
「そうよね、〇〇さんは、これが嫌いだもんね。うるさくて嫌だって言ってたもんね。」
少し落ち着いて、微かに頷く父。
「でもね、〇〇さん。これがねぇ、私たちの仕事なんだわ。ちょっと煩いけど、パッと手早く済ますから、ちょっと我慢してもらえる?」
そんな問いかけに、父は、
「仕事ならしょうがないな・・」とブツブツ言いながら、了承しました。
「ご迷惑をおかけしてすみません。短気なもので」
そう声をかけると、ケアマネさんは、
「いえいえ、私たちは慣れてますから。いろんな方がいらっしゃるから。お年寄りは、それぞれに個性豊か。それがこの仕事の面白いところです」と笑顔。
未だに父の怒鳴り声に慣れない私。
ケアマネさんに教えられた1日でした。
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同居介護はしないという選択
車いす生活となった88歳の父と、脳梗塞で寝たきりとなった母。
現在、父は、サービス付き高齢者住宅に入所、母親は、回復期リハビリ病院に入院しています。
両親は、突然、現在のような介護度になったわけではなく、7~8年前から、少しづつ手助けが必要になってきました。
最初は、近くに住む姉が、週末に両親が当時住んでいた実家に行き、買物に連れて行ったり、外食に連れだしたり、掃除をしたり。
そして、週2回のデイサービスもこの頃から利用しています。
それが次第に限界を迎え、現在の暮らしに行きつくまで、2つのターニングポイントがありました。
5年ほど前、すでに認知症を発症していたと思われる母は、食事を作ることができなくなりつつありました。
食事とお掃除をヘルパーさんに助けていただきましたが、「何を作ってもらったらいいかわからない」「ヘルパーさんが来ると思うと落ち着かない」「断ったら悪いと思うと、どうしていいかわからない。泣けてくる」と自分を追い込んでパニックになることも。
そんな母を、父は、「何をしとるんだ、しっかりしろ!」と叱咤激励するばかり。
そんな折り、父が肺炎で入院。
「もう、二人の生活は限界だね」
そう姉と話し合い、サービス付き高齢者住宅への入居を勧めました。
双方共にストレスですぐに生活は破たんする
この時、考えて見れば、姉が両親と同居するという選択肢もあったでしょうが、私たちは全く考えませんでした。
特に父は、たとえ娘一家であろうと、人と同居できるような人ではない。我がままいっぱい、母を半ば召使いのように使い、好きなように自宅で生きて来た人が、娘一家と同居すれば、双方共にストレスですぐに生活は破たんする。それが見えていたからです。
お目当てのサービス付き高齢者住宅は、建って2年目の新しい物件。母は、「こんな新婚さんが入るようなところで暮らせるなんて夢みたい」と喜び、父も、病み上がりで自宅に戻る体力はないと判断したのか、すんなりと応じてくれました。
会社勤めの長かった父親の年金でまかなえる程度の賃貸料だったことも幸いしました。
物理的な距離があるから、父さんと付き合える
「飯がまずい」「こんなところに閉じ込められた」といろいろ不満もあったようですが、両親は、サービス付き高齢者住宅で5年ほど、安定した日々を過ごしました。
そして昨年末、母親が脳梗塞で倒れ、入院。
父親は独りで過ごすことになりました。
ここでも、姉が父親を引きとって同居するという選択肢もありましたが、姉も私も、今回もそれは考えませんでした。
「物理的な距離があるから、父さんと付き合える」「同じ屋根の下ではいられない」
それが私たちの出した結論でした。
もちろん、サービス付き高齢者住宅でのケアが安心してお任せできるものであったことも、大きな支えになりました。
特に、父親の性格、夫婦の関係性をよくわかってくれる信頼できるケアマネさんに出会えたことが、大きかったように思います。
これからも同居はせずに
そろそろ、母親が回復期リハビリ病院を退院する時期を迎えます。
父親の待つサービス付き高齢者住宅に戻ってこれるかは微妙なところ。
帰ってこられなければ、特養の入所を検討しています。
そして、私たちは、両親ともに、できれば二人の終の棲家であるサービス付き高齢者住宅で看取りたいと思っています。
同居はしないと決めた理由
「自分たちの生活、人生を犠牲にすることはやめよう」
これは、姉と私の合言葉です。
「お父さんのせいでこうなった」「お母さんのせいでこれができなくなった」そんな思いを抱きつつの介護は、自分も苦しいし、負の感情が言動に現れて結局は両親も傷つけることになる。
無理をしなければならない時もあるけれど、無理をし過ぎるのは禁物。
「同居をしないからこそ、いろいろと複雑な感情を抱きつつも、そこそこ優しくできているのかもね・・・」
そんなことを姉妹で話し合っています。
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「過去と他人は変えられない」というけれど
過去と他人は変えられない
過ぎ去った過去に囚われることなく、他人を自分好みの人に変えようと無駄なエネルギーをつかうこともせず、淡々と飄々と自分の人生を生きていく。
私の、生き方の芯のひとつになっているこの言葉。
特に、「他人は変えられない」、それは、たとえ親子の間柄であってもそうであり、年を重ねるにつけますます頑固になっていく父親を、変えることなどできなのだと思っていました。
人嫌いで社交性ゼロ
父親には、友人というものがいません。
会社勤めしていた頃は、仕事を通じての人間関係はありましたが、定年退職後は、誰ともお付き合いしないまま過ごしてきました。
自宅で、PCの前に陣取り、ひたすら読書。
その頃から認知症を発症していたのだと思いますが、次第に家事ができなくなっていきました。
そして持ちあがったのが、週2回のデイサービス。
週2回、昼食をいただき、オフロにも入れる。
母親には、「誰かと話しをすること」それが必要でした。
デイサービスでの父は、「取り扱い注意人物」
ところが、父親は難色を示しました。
「幼稚園じゃあるまいし、年よりが集まってチーチーパッパチーパッパなんて、歌うたったり踊ったり、そんなバカらしいことやってられるかっ!」
そう怒鳴ること数回。
それでも、美味しい昼食を楽しみに、デイサービスに通うようになりました。
ところが、ホッとひと安心したところで、またちょっとしたトラブルが。
それは、デイサービスのスタッフの方が、その日、お料理に父親を誘ったときのこと。
積極的に参加してもらおう、自主性を促そうという意図で、「〇〇さんもやってみましょうよ」「玉葱の皮をむいてもらってもいいですか?」という何度かの声かけの後、父親の感情が爆発しました。
「ここには金を払って来ているのに、なんで玉葱の皮を剥かなきゃいかんのだ!どだい、あれやれ、これやれって無礼千万だ!」鬼のような形相でそう怒鳴る父。
デイサービスでも、父は「取り扱い注意」を要する利用者でした。
あったかくて、安心するんだよ
何年デイサービスに通っても、誰かと親しくなるわけでもなく、知り合いはたくさんいても、父には、特段友人と呼ぶような人はいませんでした。
ところが、昨日、
「やっぱり仲間っていうのはいいもんだなぁ。あったかくて、安心するんだよ。この年になってつくづく感じたよ。人のありがたさを」
そう、父から電話がありました。
転倒して車イス生活になって約10日、昨日、デイサービスに2週間ぶりに行ってみると、利用者、スタッフの方が、「〇〇さん、お帰りなさい!」と次々に声をかけてくれ、なかには、握手やハグをしてくれた方も。
「待っていてくれた人がいる」「招き入れられる場所がある」ありがたさ。
それが、父の心にすーっと染み渡ったようでした。
思えば、母が入院してから約半年。一人暮らしを余儀なくされたうえに、今度は車いす生活に。
孤独と不自由が隣り合わせの生活が、「偏屈で人嫌いの父親」を変えたのかも知れません。
最後の一息まで
もう、高齢の父は、あの偏屈なまま逝くものと思っていました。あの性格は、娘も誰にも変えられない。
ところが、それはどうやら思いこみだったかも知れません。
デイサービスのお仲間やスタッフの方々によって、父のなかで変化が起きたように思います。
人は、最後の一息まで、変わり続ける可能性がある。そう思った出来事でした。
目を通していただきありがとうございました。
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今年の「母の日」には、母の絵を描いて贈ろうと思います。
もうすぐ「母の日」ですね。
ブロガーの皆さんが、「母の日」ギフトに最適な品物をたくさんご紹介くださっていて、ついつい見入ってしまいます。
「これいいな」「これ欲しい」と自分がいただく側になってにんまり。
でも、私の母は、ベッドで寝た切り。
エプロンも、バッグも、使えなくなってしまいました。
花束も、病室には持ち込み禁止。
悩ましいところです。
毎年のプレゼントは現金
ここ数十年以上、心ばかりのお金を送っていました。
それが一番喜ぶと知っていたから。
特に年金生活に入ってからは、「ありがたい・・」と素直に喜んでくれました。
父と旅行に行く、ささやかな足しにしたり、美味しいものを食べに行ったり。
「これで何をしようかな」と笑顔の母。
こちらも、ちょっと幸せな気持ちになったものです。
小学校低学年の頃以来
旅行にも外食にも行けなくなってしまった母。
そんな母が喜んでくれるものは何だろう・・。
ここ数日考えていました。
そして、思いついたのは、母の絵を描いて贈ること。
「お母さんの絵」を描くなんて、小学生のそれも低学年の頃以来です。
あの時の絵は、首から両手が出て、目も鼻も、口も歪んだユニークな代物。
それでも母は、「上手に描けたね」と褒めてくれ、そして喜んでくれたような記憶があります。
あの時は、どんな気持ちを込めて描いたのか、もう覚えてはいませんが、今なら思い出を積み重ねた分、あの時よりも思いを深くして描けるような気がします。
きっと今なら
姉が、「この表情がいいんじゃない」と母の写真を送ってくれました。
25年ほど前。ちょうど母が私くらいの年齢の時の写真です。
写真が苦手。緊張してどの写真もひきつったよう表情で写っている写真が多いなか、母らしい自然な笑顔の貴重な一枚。
鉛筆デッサンで仕上げようと思います。
最近、笑顔が減ってしまった母。
でも、きっと今なら、「娘が描いた若いころの自分」と再会し、にっこり笑ってくれるような気がしています。
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さらに迫る来る老い。父が自分の「死」を意識する。
バランスを崩して転倒
脳梗塞で回復期リハビリ病院に入院中の母を、毎日のように見舞っていた88歳の父。
変形性膝関節症で両足が不自由ながら、杖を頼りに病院と高齢者マンションをタクシーで往復していました。
体力の弱った父。連日出かけていたら、きっと「いつか、何かが起こる」。
姉も私もそんな予感がしていました。
そして、その予感が的中。
タクシーから降りる際に、バランスを崩して転倒してしまいました。
車いす生活に
かなりの痛みを訴え、これは高齢者に多い大腿骨頸部骨折かもとヒヤリとしましたが、受診の結果は、骨に異常はなし。
「痛くても歩いてください。そうでないと、歩けなくなりますよ」と言われ、痛み止めとシップをもらって帰ってきました。
痛くても歩けと言われても、かなりの激痛があるもよう。その日から、車いす生活となりました。
初めての「死」を意識した発言
遠く離れて暮らしている私は、電話で日々の様子を確認しています。
「まぁ、ワタシも生きてせいぜいあと10年だからなぁ」と口癖のように言っていた父。
足は弱っても、食欲は娘よりも断然旺盛。
ジャンボカツを平らげ、生ビールを飲み干す父を前に、
「これ、ひょっとしたら、そうなるかも知れないよ」と顔を見合わせていた姉と私。
ただ、転倒して車いす生活になってからは、様相が変わってきました。
「もう、そうは生きられんなぁ」
「最期のときは、どんな感じになるんだ?」
父から聞く、初めての「死」を意識した発言でした。
考えてみれば、60数年間、常に傍にいた妻が長期に入院し、自宅も売却。その間、インフルエンザで高熱を出してしばらく寝つき、そして今回の転倒。
ここ半年の間に、人生の相棒との生活、家、自分の健康、次々に大切なものを失ってきた父。
老いていくことの現実、そして、そう遠くはない「死」を受け止めざるを得ないところに立たされてきました。
「死」の話題を避ける人
それにしても、父は、戦前、戦後にかけて思春期、青年期を過ごしていた人です。
多くの人を戦争で亡くし、数多くの「死」に出会ってきたはずです。
「死」が今よりももっと身近かな時代を生きてきたというのに、いやだからこそなのか、「死」の話題を避ける人でした。
「お父さん、最期はどこでどんなふうに過ごしたい?」
そんな問いかけにも、「まぁ、その時になってみなくちゃわからんなぁ」
「アラエッサッサーって、あの世にいくさー」
そんなふうに話しをはぐらかし、話題を変える人でした。
その父が、自ら「死」を口にしたことは、父の心境がかなり変化してきた証拠。
これから父は、自分の死とどう向き合っていくのか、あるいは最後まで向き合わずに逝くのか、娘として、父の生き方を見届けなければとも思っています。
とはいえ、昨日は、姉が車いすでランチに連れ出し、うな重の大を平らげたとのこと。まだまだ食欲は健在のようです💦
目を通していただきありがとうございました。
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