還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

ゴミの分別ができなかった母、それが認知症の最初のサインだった

実家の土地を売却処分するため、家の解体が始まりました。

解体業者に引き渡す前に、ゴミ、不用品の類いを処分しなければなりません。

3年前にサービス付き高齢者住宅に転居するまで、約50年近く暮らしていたその家は、まさにゴミ屋敷でした。

 

恐くて中身が確認できない

実家は、いたるところにゴミがあふれ、部屋によっては足の踏み場もないほど。

特に台所周辺からは、すでに10年も前に賞味期限の切れた食品や中身が残ったまま置き去りにされた調味料がゴロゴロ。

スーパーの袋のなかには、何やら怪しげな物体が。

とても、中身を見る勇気がなく、そのまま廃棄したものもたくさんありました。

納戸や戸袋からは、火鉢、古くなって使えなくなったストーブ、餅つき機、壊れた扇風機、トースター、掃除機、昔のラジオ、かき氷をつくる機械、アイロン、古いポット、炊飯器などなど、出るは、出るはのオンパレード。

20年前に他界した祖母が一時実家で暮らしていたことがあり、その祖母の遺した品々も、ホコリをかぶって放置されていました。

 

そう言えば・・・

両親は、もともと片付けの苦手な夫婦でした。

晩酌のアテにはこだわった父親でしたが、部屋が散らかっていることは、全く気にもかけず、「ホコリで死ぬことはない」などと豪語していました。

実家が散らかっていることは、ごく普通。

でも、それにつけても「ひどい!」と近くに住む姉はよくこぼしていました。

「ジュースを飲んだら飲みっぱなし。ゴミ出しもできないんだから」と。

この頃母親は、「もうイヤになった」、「お父さんとの離婚したい」などと、悲観的なことをよく口にするようになっていました。

 

レビー小体認知症を患っていた母

母親は、2年前にレビー小体型認知症と診断され、脳梗塞で倒れるまで、内服を続けていました。

受診のきっかけは、「誰かがいる」と幻覚を訴えたことと、表情の乏しさ。

幸い、薬がとても効き、母親の幻覚は消失。表情も豊かになりました。

 そして、今回の実家の片付けで、でてきたゴミの山。

 

母親の異変、気持ちに気づかぬままに

「ああ、お母さんは、もうこの頃から認知症だったんだね」

「ここから、認知症は始まっていたんだね」

姉としみじみ話しました。

姉であっても、台所には入れたがらなかった母。

隠しておきたかったのでしょう。

「もう、お母さん、しっかりして!」という娘の激励で、ますます母親は隠すようになり、悪循環。

できない自分が情けなくもあり、悲しくもあり。

そんな母親の気持ち気づかないまま、「もうちょっと何とかならないかねぇ」と私たちは溜息をついていました。

 

やっぱりあれが初期のサインだった

そして、いよいよ自宅で生活できなくなり、サービス付き高齢者住宅に入居。

二人の生活は、大いに改善しましたが、母親の病気が判明したのは、それから1年半が過ぎた頃。

母の場合、「ゴミの分別ができなくなる」「ゴミが出せなくなる」そのことが、認知症の初期のサインだったような気がします。

 

 

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記憶の積み重ならない人を介護するということ

父の認知症

今のところ軽度です。

物の置き場所や最近の出来事はすぐに忘れてしまうけれど、有り難いことに、一人で排泄や食事、着替えもでき、生活は何とか成り立っています。

ただ、時々、ぎょっとするようなことがあり、父親は確かに認知症なのだと、何度も再認識させられています。

 

「B子(私)はここへ来たことがあったか?」

今朝、父親と電話で話していたときのこと。

突然、「それでB子は、ここへ(父の住む高齢者マンション)へ来たことがあったか?」と突然問いかけてきました。

父親がそこへ移ってからすでに3年。

お盆、お正月、誕生日など、何度も訪ねて一緒にお祝をしてきました。

母親が倒れてからから、この3か月半に限っても8回。

父親が高熱を出した時には、連絡を受けてその日のうちに駆け付け、何も喉を通らないという父親に、煮込みうどんを作って食べさせたこともありました。

その時の安堵した父親の表情は、今でも目に焼き付いています。

 

気持ちは複雑

父の思いがけない問いかけに、「何度も行ってるよ」平静を装って答えた私。

あれもこれも、あの一瞬も、すべて父親の記憶からは消えているのだなと思うと、気持ちは複雑でした。

この先、何をしても、父親のなかには何も残らないかも知れない・・・そんな悲観的な考えが、フト過りました。

 

これからの介護に大切なこと

今回のことは、ますます記憶が積み重ならなくなっていく父親に、どんなスタンスで接していけば、自分が介護をやり遂げられるのか、考える機会にもなりました。

父親は、これからさらに、瞬間、瞬間を生きる人になりそうです。

嬉しいことも、その時がすべて。

だとするならば、「この楽しい記憶が父親のなかに残る」ことは期待してはいけないことになります。

相手の記憶に残らなくても、こうして父親を支えようとした一瞬一瞬があったことを、自分の記憶に留め、自分で自分にOKを出す。

自己満足であったとしても、そうして自分自身を納得させていくことが、悔いのない介護につながっていくような気がしています。

「いいの、いいの、お父さんは覚えていないかも知れないけれど、私は楽しかったし、幸せだったよ」

そう心から言える自分でありたい。

そう心から言えなければ、この先、自分らしく介護はできない・・・そんなことを考えさせられた父親からの電話でした。

 

 

 

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遠距離介護、遠方の妹が介護する姉にすべきこと

近くに住む姉が、仕事をつづけながら両親の介護をするようになって3か月半。

姉は、休みの日は、母親の入院先と父親の高齢者マンションを訪ね、仕事のある日も、仕事帰りに父親の元に走るなど、体も心も、休まることがありません。

できることのすべてを尽くして両親のケアをしてくれている姉。

そんな姉に、遠方に住む妹がすべきことは何なのだろうかと考えてみました。

 

姉の代わりができるのか、まずは感謝

姉も私も、両親の娘であるということには変りはありません。

ただ、姉がたまたま近くに住んで、結婚以来、両親とは比較的密に交流があったというだけ。

今回姉が倒れ、自然ななりゆきとして姉が主に介護を担ってくれていますが、今現在、私が姉の代わりができるかを考えてみると、それは不可能に近いと言わざるを得ません。

姉のように、ほぼ連日、母親か父親の元を訪れることは、期限付きにせよ今の生活を

手放すことを意味します。

もしも、姉が病気や事故で倒れてしまったら、いったいどうなってしまうのか。

逆に考えれば、こうして私がここで生活できるのも、姉がいてくれるからこそです。

妹の私がまず姉にすべきことは、こうした感謝の気持ちを伝え続けること、それが一番大切なことだと今さらながら気づかされます。

 

勝手な期待を抱かず、自分のできることをしっかりと

姉あっての、自分の生活。

わかってはいても、「もう少し・・・してくれても」という気持ちが起こることもありました。

父親が、姉への不満を口にしたり、姉に気持ちが伝わらないと嘆くときには、「忙しいだろうけど、もう少し話しを聞いてあげて欲しい」そんな気持ちになりました。

ただ、姉は精一杯。

もう、これ以上はできないというほどに必死で走り回っているのですから、状況をよく把握していない妹に、あれこれ言われるのは、気持ちがいいはずはありません。

ケアマネさんや病院関係者と連絡を取りながら、日々、起こる出来事に対処し、一方で父親の不満や愚痴を事細かに聴くという二つの役割を、姉が同時に担えるはずはありません。

父親の不安や不満を受け止める役割は、私が果たせばよいことです。

主介護者に、あれもこれもと勝手な期待を抱かず、離れている自分ができる範囲のことをしっかりと果たす・・。それが、大切なことだと実感しています。

 

こうして書きながら、自分の至らなさを反省しています。

離れた妹が、奮闘する姉にできること、すべきことは、姉が介護しやすいように、姉を支えること。

姉に常に感謝の気持ちを伝え、勝手な期待はせず、自分のできる役割を果たす。そして、姉の選択を支持し続ける。

始まったばかりの介護で、この先、長い道のりになりそうです。

「姉妹仲よく両親を看取る」これを合言葉に、二人三脚で頑張っていかねばと気持ちも新たにしています。

 

 

 

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介護にまつわる気持ちの揺らぎをコントロールする方法

母親が脳梗塞で倒れたのは、昨年12月の半ば。

両親と同じ市内に住む姉と、遠方の私での介護が始まりました。

両親の元に帰ったのは、3か月半で8回。

姉の負担に比べたら、私が担っている部分など、本当にごくわずか。

それでも、いつも両親のことが頭から離れることのない毎日でした。

 

気持ちが揺れることの多い介護

両親と離れて暮らす私。

介護の身体的な負担はさほど感じていませんが、あれやこれやと気持ちが疲れる3か月半でした。

まずは、この先、母親と、母親の入院によって急速に衰えた父親はどうなっていくのだろうかという先行きの不安。

母親が倒れたことで、半身もぎ取られるかのように不安を募らせる父親。その父親の訴えを受け止める負担感。

母親を思う気持ちを延々と話し続ける父親を前に、「それならば、お母さんが元気な時にもっと優しくしてくれれば良かったのに」というフツフツと込み上げる父親への怒り。

年をとり、体力、理解力が低下し、より子供のようになっていく父親に感じる情けなさ。

時に、もっと、やさしく対応すれば良かったという罪悪感。

遠方に暮らしている私でさえ、気持ちの揺れることの多い日々でした。

 

これからの長期戦、どう乗り切るか

胃瘻をつくることが決まった母親。

両親の介護は、長期戦となりそうです。

自分自身の気持ちの揺れにも、次第に慣れていくとは思いますが、必要以上に自分が揺らがないように、できればうまくコントロールしていきたい。

そんなことを思いつつ、最近、自然に始めたことがあります。

それは、「両親を名前で呼ぶ」ということです。

 

「両親を名前で呼ぶ」ー夫との会話、姉との会話のなかで

例えば、夫との会話のなかで、

「さっき、和男さんから電話があったんだけどね」とか、

「涼子さん、少しは食べられるようになったみたい」などと、「お父さん」「お母さん」と言わずに、名前で呼ぶようにしています。

姉との会話のなかでも、「お父さん、困っちゃうよね」と言わずに、「和男さん、困った人ね」と言うようにしています。

最近は、夫も、「今日の和男さん、どう?」と合わせてくれるようになりました。

 

距離やゆとりが生まれる

自分の両親を、「和男さん」「涼子さん」と呼ぶのは、何だか冷たく感じられるかも知れません。

でも、名前で呼ぶことによって、心理的な距離が取れるような気がして、私は少し楽になります。

そこには、ちょっと他人ごとのような距離やゆとりが生まれ、些細なことに目を奪われずに視野を広く保てるような気もしています。

自分の親だと思うからこそ、あれこれと気持ちが揺らぐ日々。

自分の親には違いないけれど、私の場合、あえて、他人のように名前で呼んでみると、必要以上に揺らがずに、ほんのわずかでも気持ちに歯止めがかかるような気がしています。

 

 

 

 

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両親の老後資金の運用はありか?

両親が、ご自分の老後の資金を運用しているという友人

昨日のことです。

実家を売却してつくったお金も、このままでいけばあと数年で底をつきそう。

今後の両親の生活資金が心配だと友人に話していたら、「資金を運用したら?」と友人の両親のことを話してくれました。

友人のご両親は、70歳代後半。身体も気持ちも年齢を感じさせないほどに若く、もちろん介護は必要ありません。

そんな友人のご両親ではありますが、この先の老後の資金を少しでも増やしたいと、投資信託で資産運用しているそうです。

資産運用については、全くの素人の私。友人の話しがすべて理解できたわけではありませんが、

ご両親は、ある投資信託に資金を投入し、月、7%以上の配当金を得ておられるそうです。500万円の投資で、配当金は、毎月38000円になるとか。

友人は、自宅を売却してできたお金を運用すれば、配当金で母親の入院費程度は賄うこともできるのではないかと話していました。

 

そんないい話しが、世の中にあるのか

500万円で月38000円!

驚きました。そんないい話しが、世の中にあるのかと。

友人が言うには、その投資信託は、ハイリスクハイリターンの商品。もちろん、元本保証はありません。

ただ、ここ数年、投資会社は、成長を続けているそうです。

「また、リーマンショックでも起これば別だけど、両親は、そんなに心配してないみたいよ」と友人は話していました。

 

気持ちが動く

単に小耳に挟んだだけの情報ですが、少し真面目に考えてみました。

少し気持ちが動いたのは確か。

それは、

①少しでも収入が増えるとすれば、それは単純にありがたい。

②まとまった金額を投資信託に投入すれば、父親が次々にお金を引きだして使ってしまうことを防ぐことができる。

➂将来の、お金を使い果たしてしまった時の心配が薄らぐ、なくなる

からです。

 

 やっぱりなしだな

そんな世界があるのかと驚き、少し気持ちが動いた私。

夫と、いろいろ話し合ってみました。 

もちろん成功すれば、ありがたいお話しです。

ただ、

①物事を理解して判断する力の衰えた父親が、自分のお金を投資に回すという意思決定を下すことは困難

②これからの両親の生活を支える大切なお金を、リスクの高い投資に回してしまって良いのだろうかという気持ち

➂もしも、失敗してしまったとき、埋め合わせをする力が自分にはない

これらを考えると、「やっぱり、この手の話しはなしだな」と私も、気持ちが落ち着きました。

資産が1億円ある方が、ハイリスクハイリターンの金融商品で少し冒険するのは、もちろんありでしょう。

その500万円が、最悪なくなってしまっても、生活そのものには支障がないからです。

でも、両親の場合は、最後に残った、しかもこれからの生活を支える大切なお金。

ズブの素人、何も知識のない娘が勧めて、「トラの子」のお金をハイリスクハイリターンの投資に回すべきではないと思ったのです。

両親は、金銭欲というものがほとんどない夫婦。

投資や株には無縁のままここまで来ました。

このまま、あえて冒険せずに。それもあの夫婦らしい生き方ではないかと思ったりもしています。

 

 

 

 

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介護者を傷つける「トゲのある言葉」

それは、つい先日、母親が、胃瘻をつけることを決断した直後のことでした。

年老いて認知症もあり、冷静な判断が下せない父親

結局、姉と私で決断し、父親の了解を得るというかたちで話しは進んでいきました。

「胃瘻をつけるとね・・」

「もし、つけなければこうなるんだよ」

何度同じことを説明したことでしょう。

その時には、「そうか、わかった」と言う父親ですが、数時間たつと、

「本当に胃瘻をつけていいのかい?つけると・・・だろ?」とまた最初に振りだしです。

何度も電話をかけてくる父親。姉も、父親からの電話に疲弊していました。

 

不安を抱えていられない父親

母親が入院した後は、一人で暮らす父親

高齢者住宅でひとりポツンと過ごす父親は、不安が頭を過ると、それを抱えていることができません。

まずは姉に電話をします。

姉が仕事中であれば、「ただいま電話に出ることができません」と流れる自動音声。

それでも諦めずに、数分後に何度でもかけます。そしてその度に繰り返される自動音声。

その後、私にかかってきます。私にかかってくるときには、だいたいいつも不安も頂点に達した頃です。

 

「あいつは、また仕事なんだな。どんな(立派な)仕事をしとるか知らんが・・」

父親は、姉が、たとえ仕事中であろうと、電話に出ないのが不満でなりません。

いつも、すぐに電話に出て欲しい。そして、不安を和らげるような優しい一言をかけて欲しい。それが父親の本音です。

しかし、もちろんそうはいかないのが現実。

姉に電話を何度かけても出ないと話した父親は、その後、不機嫌そうな声で、

「あいつは、また仕事なんだな。どんな仕事をしとるか知らんが、仕事、仕事って、頼りにならんヤツだ、まったく!」と吐き捨てるように言いました。

そこには、自分よりも仕事を優先していることへの腹立たしさ、

親のことよりも優先すべき立派な仕事などあるのかという怒り、

そして、どうせ大した仕事でもないのにという皮肉の意味が込められているように感じました。

 

もし姉が知ったとしたら

もちろん、父親のこの言葉は姉には伝えていません。

もし姉が知ったとしたら、この言葉のトゲは、深く姉を傷つけるように感じたからです。

姉なりに両親に全力で尽くしてきた日々。

それなのに、「まだ足りないの?まだ、何かをしろって言うの?」

「私には私の人生があるのよ、お父さんのことだけで世界が回っているんじゃないのよ」

「そうやって、私を支配しないで!」

「私の仕事に、あれこれ言う権利なんて、お父さんにはないのよ!」

そんな怒りが爆発するか、あるいは、

「ああ、どれほどやっても、お父さんにはわかってもらえないんだな」という悲しみや切なさで、ひどく気分が落ち込むか、

どちらにしても、姉を傷つけ、「自分が何とかせねば」と走り続ける姉の足が、この言葉のトゲによって掬い取られてしまうように感じたからです。

そして、この種の言葉は、ボディブローのようにその痛みが長く残って、じわじわと効いてくる、そんなことも感じていました。

 

 

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介護ストレスから身を守る。姉の場合

今年62歳になる姉は、昨年の3月末に長年勤めた会社を定年退職し、4月から関連会社に再就職しました。 

それまでの管理職という立場を離れ、肩の荷を下ろした姉は、さまざまなストレスかあら解放され、純粋に仕事そのものを楽しんでいたようです。

そして、再就職から9か月後の昨年12月、母親が脳梗塞で倒れ、介護が始まりました。

 

もう1年だけ 

母親が倒れた当初、姉はすでに来年度の勤務継続希望を提出していました。

「もう1年だけ、何とか仕事を続けたいと思うの」そう話した姉。

介護と仕事のバランスをはかるのは容易ではないけれど、姉の人生は姉のもの。

「仕事を続けたかったのに、両親の介護でできなかった」と姉が犠牲感を抱くのは妹としても本意ではなく、姉の今の選択を支えたいと思っていました。

 

それから9か月。いつも疲れている姉

姉は、母親が倒れてからというもの、仕事の休みの日は、ほとんど母親の面会、医療者との対応、父親のこまごまとした日常生活の助け、自宅売却にかかわるあれこれに奔走。

自宅でゆっくりできたのは、5日間ほどとのことです。

会えば、いつも疲れている印象。

姉と二人で母親の病状説明に同席した際、主治医が説明している最中のほんの一瞬、姉の意識が薄らぎ、居眠りをしたときには、「ああ、疲れているんだな」と驚きもしました。

 

「私、ずっと仕事してないと、やっとれん!」

そんな姉が、昨日電話で、「私、仕事をしていないと、やっとれん!」と叫びました。

仕事を減らせば、仕事をやめてしまえば、姉の負担は少なくなるかというと、さにあらず。

そう思わせる要因は、父親にありました。

不安と孤独、寂しさに耐えきれない父親は、始終姉に電話をします。

「A子(姉)、ちょっと来れんか」

「今度は、いつ来てくれるんだ」

「なんだ、ずっと仕事なのか・・・」

父親が、肩越しから覆いかぶさってくるように感じる何とも言えない負担感、不快感。

母親の病状について、何度も同じことを聞き、嘆く父親

仕事が終わって携帯電話をみると、父親からの不在着信が10件あまり。

「携帯を開くのとうんざりして、携帯をみるのが怖くなる」と姉は話していました。

 

介護離職の防止はストレスから介護者の身を守るためにも大切なこと

「仕事中が一番自由。だから仕事がないと、私、ダメになる」

仕事を続けることで、姉は、時間的、体力的には自由がきかなくなっています。

ただ、精神的には、仕事を続けることが、介護ストレスから身を守る防波堤になっているようです。

介護離職の防止・・そんな言葉をよく耳にするようになりました。

姉の場合を考えてみると、介護離職を防止することは、介護する人の身をストレスから守るためにも大切なことなのだと感じています。

もちろん、職場環境、労働条件にもよりますね。

 

 

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