記憶の積み重ならない人を介護するということ
父の認知症。
今のところ軽度です。
物の置き場所や最近の出来事はすぐに忘れてしまうけれど、有り難いことに、一人で排泄や食事、着替えもでき、生活は何とか成り立っています。
ただ、時々、ぎょっとするようなことがあり、父親は確かに認知症なのだと、何度も再認識させられています。
「B子(私)はここへ来たことがあったか?」
今朝、父親と電話で話していたときのこと。
突然、「それでB子は、ここへ(父の住む高齢者マンション)へ来たことがあったか?」と突然問いかけてきました。
父親がそこへ移ってからすでに3年。
お盆、お正月、誕生日など、何度も訪ねて一緒にお祝をしてきました。
母親が倒れてからから、この3か月半に限っても8回。
父親が高熱を出した時には、連絡を受けてその日のうちに駆け付け、何も喉を通らないという父親に、煮込みうどんを作って食べさせたこともありました。
その時の安堵した父親の表情は、今でも目に焼き付いています。
気持ちは複雑
父の思いがけない問いかけに、「何度も行ってるよ」平静を装って答えた私。
あれもこれも、あの一瞬も、すべて父親の記憶からは消えているのだなと思うと、気持ちは複雑でした。
この先、何をしても、父親のなかには何も残らないかも知れない・・・そんな悲観的な考えが、フト過りました。
これからの介護に大切なこと。
今回のことは、ますます記憶が積み重ならなくなっていく父親に、どんなスタンスで接していけば、自分が介護をやり遂げられるのか、考える機会にもなりました。
父親は、これからさらに、瞬間、瞬間を生きる人になりそうです。
嬉しいことも、その時がすべて。
だとするならば、「この楽しい記憶が父親のなかに残る」ことは期待してはいけないことになります。
相手の記憶に残らなくても、こうして父親を支えようとした一瞬一瞬があったことを、自分の記憶に留め、自分で自分にOKを出す。
自己満足であったとしても、そうして自分自身を納得させていくことが、悔いのない介護につながっていくような気がしています。
「いいの、いいの、お父さんは覚えていないかも知れないけれど、私は楽しかったし、幸せだったよ」
そう心から言える自分でありたい。
そう心から言えなければ、この先、自分らしく介護はできない・・・そんなことを考えさせられた父親からの電話でした。
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