「別人になった母には興味がない」。モヤモヤするけどこれもありか、親子よ、介護よ、どこへ行く!
以前、ジムのダンス系のクラスでご一緒した50歳代のAさん。
「お母様が脳梗塞で倒れた」
そんな風の便りは聞いていましたが、私も、ここ半年はジムにもご無沙汰。
ずっとお会いしないままでしたが、先日の地域の「夏祭り」で偶然にも再会。
「あら!元気にしてたの?」
そんな声をかけて、しばらくおしゃべりしました。
もう、お母ちゃんには興味ないねん
「お母さんが脳梗塞だって?」そう声をかけると友人は、
「今、施設にお世話になってんねんけど、もう、私の顔もわからんし、全く別人やねん」と。
「ほんと・・」
かける言葉もみつからず黙っていると、友人は、気落ちしている様子もなく、まくし立てるように話し出しました。
「もうな、私が思ってるおかあちゃんは、発作を起こした時に死んだんやって思うねん。」
そして小声になり、
「ほんまのこというたら、あの時、逝ってくれても良かったんやけど・・。」
「・・・」
「だって、そない思わへん?もう、息子のことも娘のこともわからんようになってしもて、面会しても、ただわけのわからんこと叫びよるだけで、おかあちゃんとは違う人やねん。私、こんなこと言うたらいかんのかも知れへんけど、もう、お母ちゃんには興味ないねん。」
「・・・」
「冷たい娘やろ。ビックリするやろ?ほんでも、自分の生活もあるさかいに、娘のこともわからんようになってしもた母親のこと、いつまでも考えてるわけにもいかんねん。」
「はぁ・・・」
「そんで、施設の人にも言うてあんねん。私は母親には興味も関心もありません。お金のことや、その他の大事なことは兄がしますんで、私には一切、期待しないでくださいって。すごいやろ。ハッキリしてるやろ。そんでも、それが現実やもん。お母ちゃんが元気な時に、子どもたちに迷惑はかけたくないってよう言ってはったしな。介護は、慣れてる人、専門家にやってもらうのが一番いいやん」
「おかあちゃんも、介護のことで娘がいろいろ苦労するなんて、望んでなかったんやから、そんでいいと思うねん。」
「そっか・・・」
Aさんは、とにかく、一方的にまくし立てるように話し、「それじゃ!」と去っていきました。
残された胸のモヤモヤ
言いたいことだけを言って、立ち去って行くAさんの後ろ姿を見送りながら、胸に何とも言えないモヤモヤしたものを感じていました。
自分が思っていた母親がいなくなってしまったからといって、興味も関心も持てないってどういうこと?
親子の情って、そんなに容易く断ちきれるものなの?
「お母ちゃんも迷惑かけたくないって言ってた」って、それは、あまりに都合が良すぎやしない?
「専門家に看てもらうのが一番」って、それも勝手な理屈でしょう。
そう、思わざるを得ないようなことが、親子関係にあったのかも知れないけれど、「あの時逝ってくれても」なんて、命というものをどう考えてるのよ!
人として、大切なものが欠落しているような・・。
モヤモヤを通り越して、腹立たしさも加わり、何だか気分が悪くもなってきました。
あれだけハッキリ言えれば、鬱にはならない
ただ一方で、時間が経つにつれ、別の感情や考えも芽生えてきました。
親の介護をめぐっては、複雑な感情を抱えつつも、「息子だから」「娘だから」「自分の親なんだから」、「自分がやるしかないのだから」と歯を食いしばって頑張りぬくことが美徳とされてきた一面があります。
娘でありながら、「親に興味がない」と言い放つことはまだまだ「タブー」。
ところが、それを公言して憚らないAさんは、よほど鈍感なのか、強いのか。
いずれにしても、「興味も関心もわかない」というAさんを、非難しても説教をしても意味のないこと。
母親を愛おしむ感情がわかないAさんに、なぜわかないのかと掛け合ったところで、永遠の平行線。
告げられた相手は、黙する他はありません。
Aさんに対するモヤモヤした感情は、どこか自分も、世間に気がねして押えている感情を、全く臆することなくスパーンと言ってのけることに対する、ある種の羨望もあるのかも知れません。
そして、誰に非難されようと説教されようと、「無理なものは無理」と言い切る強さにも、どこかで憧れているのかも知れません。
そして、あれだけハッキリ言えれば「介護鬱には絶対にならないだろうな」と思うにつけ、Aさんのような身の処し方もありではないかと思ってみたり。
親子とは、命とは、介護とは、自己決定とは・・
そんなことに頭をめぐらしつつ、自分の周りでも急速に変化しつつある「家族」のあり方を考えている夏の終わりです。
目を通していただきありがとうございました。
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