還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

足るを知り、与え続ける人生を送りたい

母親が5か月間お世話になった回復期リハビリテーション病院を退院し、有料老人ホームに移りました。

入所に当たり、1か月ぶりに帰省。

姉は、かなりのストレスを抱えているもようで、夜がふけるまで、尽きない話しにひたすら相槌。

やがては迎える自分自身の老い

あれこえ考えさせられたひと時でした。

 

お父さんは、野垂れ死にしても仕方がないと思ってる

姉の堪忍袋は、どうやら切れかけているようでした。

というのも、自宅売却に関して、父親は納得して自ら売却を決めたハズなのに、今になって、「オマエがうっぱらっちまえっていうから売ったけど、あれは失敗だった」と言いだしたことが尾を引いているようでした。

月に母親の有料老人ホームで13万円、父親のサービス付き高齢者住宅で22万円余り。

それは、合計35万円は最低でもかかる生活費を、この先年金のみで賄えるハズもなく、蓄えも底をついた現在、残された道は、自宅の売却しかないというギリギリの判断でした。

ところが・・。どういうわけか、父親のなかでは、「娘に売らされてしまった」ことになっているようです。

自宅売却をめぐって、姉は姉の夫、姪の家族総出でゴミを片付け、ゴキブリの卵や虫の死骸をかき分けてゴミ屋敷を整理したというのに、その苦労も全く意に介さぬ父。

姉は、「どうしても許せない」と。

 

医療費を払わない父

父親の人格を疑いたくなる出来事が。ここにきててんこ盛り。

母親の月々の医療費が、ここ半年で60万円余り。

毎月清算は、姉がしてきました。

「お父さん、〇〇万かかったよ」とその都度領収証を見せて報告するものの、「そうか、払わなきゃいかんな~」というものの、支払う気配はまるでなし。

わが父ながら、本当に残念!

自宅売却で父親の預貯金の残高は、かなりのもの。

払えないハズはないというのに。

「自分の手もちのお金は減らしたくない」「娘が払っておいてくれるだろう」というズルさや甘えが丸見えで悲しいと姉は話していました。

 

いつも不満な父

転倒してから車イスのお世話になっている父。

サービス付き高齢者住宅の食事がマズイという父に、姉は、できるだけ美味しいものをと週に2回は外食に連れだしています。

小柄な姉が、重い車イスを積み、大柄な父を介助して車イスのにせて店内に入るだけで体力を消耗します。

だというのに、「いや~、大したことはなかったな」「うまくないなぁ・・。あそこはダメだな」とほとんど決まってダメだし。

最近は、近くの飲食店から出前を頼むことを覚え、「お父さん、良かったね!」と声をかけると、「やっぱり出前なんてものは飽きるよ・・」と。

何をしても、何を提案しても、決まってダメ出しが入る父。

姉は、「ホント、疲れる。もう、勝手にやって!」と小さく叫んでいました。

 

「ありがとう」の裏にあるもの

「絶対、ありがとう」を言わない人だから・・。

そんな介護者の嘆きをよく耳にします。

ご本人の満足が、介護者の支え。

介護において、「ありがとう」の一言のもつ意味はとっても大きなものがあると思います。

その点我が父は、姉にも私にも、「いや~ありがとう、よくやってくれてありがたい」とそんな言葉をかけてくれます。

ところが、その次には、「で、今度はいつ来てくれる?」「それで、次はどんなうまいもんを食うんだ?」と、更なる期待を口にする父。

「もっともっとやって欲しい」という気持ちは、止まるところを知らないように感じてなりません。

「もうね、ホント、うんざりざわ!」そんな言葉に、深く頷いてしまいました。

 

父親に何を望んでいるのだろうか?

来月89歳を迎える父。

父の「老醜」ばかりが目立ち、溜息をつく私たち。

それではいったい、89歳の父に何を望んでいるのかと考え込んでしまいました。

どんな言葉が聞けたなら、もっと明るい気持ちで父に接することができるのかと。

何しろ高齢ですから、そんなたいそうなことを望んでいるわけではありません。

ただ、

「ここの食事はうまくはないけれど、一日3回作ってもらって食べられるだけでありがたい」

「出前は飽きるけれど、食欲がない時に持ってきてもらえるのは心強い」

「うまく歩けなくなって不自由だけど、他には今、特に悪いところもなくて良かった」

「母さん(妻)は、食事が摂れないけれど、生きていてくれるだけで幸せだ」

そんな、「足るを知る」言葉が聞けたなら、逆に、「そうは言っても困るでしょう」と気持ちよく手を差し伸べられるような気がしています。

 

自分自身の老いの心得

両親をみていると、自分自身もやがて行く道。

老い方について、考えざるをえません。

できれば、周囲の人を疲れさせるだけの老い方はしたくない。

高齢になれば、体力も気力も、経済力も、人のネットワークも、本当に多くのものを失うことになります。

そうであったとしても、経験や知恵、心地の良い存在感など人に何かを与え続けることはできるはず。

「人に何かをしてもらう」ことばかりが先行する存在というのは、本当に寂しいものです。

自分が持っているものを惜しみなく与え続け、足るを知って、老いを粛々と受け止める、そんな老い方をしたいと願わずにはいられません。

老い方は、その人の生き方の縮図のような気もします。

もしそうであるならば、今、この瞬間も、そのことを意識して・・、そんなことを思っています。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

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