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還暦からの再起動

リタイア後に田舎暮らしを始めた還暦女子。それなりの「人生の旬」を綴ります。

「最後の最後、安らかに看取るための入院」は、ありえない?

アルツハイマー認知症で在宅療養を続けていた叔父。

発病後6年目にして寝たきりとなり、やがて食事が摂れなくなっていきました。

しばらくは、かかりつけの医師の往診による点滴で頑張っていましたが、

その点滴も入らなくなり、叔母は、「もう限界」だとして入院させることにしました。

ギリギリまで自宅で介護したけれど、餓死していくのを見ているのはやはり辛い。

最後の最後だけ入院させて、医療者の見守りのもとに安らかに看取りたい、そう希望しての入院でした。

 

延命はしません。胃瘻もつくりません。ところが・・・

叔母は、入院当初、「もう覚悟はできています。延命は本人が辛いだけだし、胃瘻もつくりません」とハッキリ病院側に告げていました。

ところが、入院して4~5日後のこと。面会にいったところ、鼻から栄養を入れるチューブが入っていたとのこと。

「えっ!とは思ったけれど、一度入れたものを抜いてくださいとまでは言えなかった」と叔母。

「胃瘻とは異なり、鼻からのチューブは、一般的にはそれほど長く入れておけない。一時的なもの」との説明を受けたようです。

ところが、1週間に1度のチューブ交換を繰り返すこと1年弱。

このチューブから入る栄養と薬で、意識のないまま叔父は生き続けました。

「最後の最後、安らかに看取るための入院」という叔母の見込みは、大きく外れていきました。

 

そして、今回迎えた危篤の場面。

鎖骨下の静脈に点滴が入り、昇圧剤、利尿剤、抗不整脈剤などなど、弱った心臓を動かすための薬剤が各種。

血圧計、酸素濃度測定器、心電図などの測定機器につながれた叔父。

「安らかに看取る」とはかなり異なる様相で、人工呼吸器こそ入ってはいないものの、そこではまさに延命治療が行われていました。

 

延命せざるを得ない医療者

患者・家族側から見れば望まない治療であっても、これをすれば、この薬を使えば、当面の死を回避することができる、延命できることがわかっていれば、そうせざるを得ないのが医療の倫理なのかも知れません。

それが嫌ならば、「入院している意味はありませんね。自宅に戻るか、介護施設にどうぞ」という話しになるのでしょう。

入院している以上は、生きるという方向で治療を受けざるを得ない。

叔父を見ていて、「安らかに看取る」ための入院は、癌終末期の緩和ケア、ホスピス病棟でもない限り、困難な現状を知りました。

 

「安らかに看取るための入院」、現実的にはまだまだ難しい

さてはて、自分や夫が、同じような状況になったらどうするか。

夫は、とても怖がりなので、弱って死に近づきつつある私をとても看ていることはできないでしょう。

ただ、夫の時には、叔父のようにはさせたくない。

「安らかに看取るための入院」、現実的にはまだまだ難しいことを、肝に銘じておかなければと思います。

 

 

 

目を通していただきありがとうございました。

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