パートナーを失うことを想像してみる、それが終活の第一歩
88歳の父親と84歳の母親。
母親が脳梗塞で倒れてからというもの、父親の狼狽ぶりは、想像以上のものがありました。
典型的な亭主関白。
泰然自若としているかと思いきや、些細なことでオロオロするばかり。
その「気の小ささ」は、呆れるほどのものがありました。
「母さんが先に逝くなんて考えたこともないし、考えたくない」
それは、長くお付き合いのある父の友人の話しをしているときでした。
「奥さんを亡くして、もう4年になるかなぁ、寂しいだろうなぁ」と父。
父親の年齢になれば、妻を亡くして一人暮らしとなる男性も少なくはありません。
父親が暮らす高齢者マンションにも、妻に先立たれ、一人で暮らすシニア男性を何人も
お見かけします。
「お父さんの暮らすマンションにも、一人くらしの男の人、たくさんいらっしゃるけど、お父さん、自分も行く行くはそうなるかも知れないって考えたことないの?」
あえて、そう聞いてみました。
父は即座に、「ないよ、母さんが先に逝くなんて、考えたこともないし、考えたくもないなぁ」と。
妻を失うことに対する想像力を持たなかった父
今回の父親の狼狽ぶり。
それは、妻を失うことに対する想像力を持たなかったことが要因のひとつのように思いました。
「妻を失うことを考える」それを避けてきた父。
考えないようにしてきた父に、突然起こった母親の病。
現実を突きつけられ、ただオロオロするばかりの父。
この年齢になるまで、それを考えずに過ごしてきた父親の甘さに、少しの溜息とともに、何とも言えない父親らしさも感じています。
父に教えられたこと
昨今、私の周りでも「終活」という言葉をよく聞くようになりました。
話題になるには、「断捨離」、「遺産相続」、「延命処置に対する事前指示」、「お葬式・お墓問題」といったところ。
ただ、父親をみていて感じるのは、延命処置が必要な状態や葬儀が突然やって来るわけではなく、その前に少なからず人は、「配偶者に先立たれる」という現実に直面するということ。
「配偶者をどう看取るか」、「大切な人の最期をどう支えるか」を考えずして、自分の最期を具体的に見つめることなどできないような気がしています。
私たち還暦夫婦は、「パートナーを失うことを想像する、それが終活の第一歩」だと、88歳の父親から教えられました。
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