介護にまつわる気持ちの揺らぎをコントロールする方法
母親が脳梗塞で倒れたのは、昨年12月の半ば。
両親と同じ市内に住む姉と、遠方の私での介護が始まりました。
両親の元に帰ったのは、3か月半で8回。
姉の負担に比べたら、私が担っている部分など、本当にごくわずか。
それでも、いつも両親のことが頭から離れることのない毎日でした。
気持ちが揺れることの多い介護
両親と離れて暮らす私。
介護の身体的な負担はさほど感じていませんが、あれやこれやと気持ちが疲れる3か月半でした。
まずは、この先、母親と、母親の入院によって急速に衰えた父親はどうなっていくのだろうかという先行きの不安。
母親が倒れたことで、半身もぎ取られるかのように不安を募らせる父親。その父親の訴えを受け止める負担感。
母親を思う気持ちを延々と話し続ける父親を前に、「それならば、お母さんが元気な時にもっと優しくしてくれれば良かったのに」というフツフツと込み上げる父親への怒り。
年をとり、体力、理解力が低下し、より子供のようになっていく父親に感じる情けなさ。
時に、もっと、やさしく対応すれば良かったという罪悪感。
遠方に暮らしている私でさえ、気持ちの揺れることの多い日々でした。
これからの長期戦、どう乗り切るか
胃瘻をつくることが決まった母親。
両親の介護は、長期戦となりそうです。
自分自身の気持ちの揺れにも、次第に慣れていくとは思いますが、必要以上に自分が揺らがないように、できればうまくコントロールしていきたい。
そんなことを思いつつ、最近、自然に始めたことがあります。
それは、「両親を名前で呼ぶ」ということです。
「両親を名前で呼ぶ」ー夫との会話、姉との会話のなかで
例えば、夫との会話のなかで、
「さっき、和男さんから電話があったんだけどね」とか、
「涼子さん、少しは食べられるようになったみたい」などと、「お父さん」「お母さん」と言わずに、名前で呼ぶようにしています。
姉との会話のなかでも、「お父さん、困っちゃうよね」と言わずに、「和男さん、困った人ね」と言うようにしています。
最近は、夫も、「今日の和男さん、どう?」と合わせてくれるようになりました。
距離やゆとりが生まれる
自分の両親を、「和男さん」「涼子さん」と呼ぶのは、何だか冷たく感じられるかも知れません。
でも、名前で呼ぶことによって、心理的な距離が取れるような気がして、私は少し楽になります。
そこには、ちょっと他人ごとのような距離やゆとりが生まれ、些細なことに目を奪われずに視野を広く保てるような気もしています。
自分の親だと思うからこそ、あれこれと気持ちが揺らぐ日々。
自分の親には違いないけれど、私の場合、あえて、他人のように名前で呼んでみると、必要以上に揺らがずに、ほんのわずかでも気持ちに歯止めがかかるような気がしています。
目を通していただきありがとうございました。
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