人生の最晩年、何を語るか
脳梗塞で倒れ、入院中の母親
梗塞の範囲が広く、高次脳機能障害が残りました。
意識がどこまでクリアなのかがあやふやで、会話もあまり成り立ちません。
「お母さん」と呼びかければ、「ああ、来てくれてありがとう」と応えてはくれるものの、しばらくすると「白馬の王子さまがいるの」とか、「ウサギがね・・」といった意味不明の内容に。
発語もハッキリせず、あまりよく聞きとれない状態です。
テニスに夢中だった母親
そんな母親が、唯一、ハッキリと話すのは、「婦人テニス連盟」のお話。
母親は、子育てが終わった50代半ばから70歳まで、約15年間、テニスに夢中でした。
毎日、自転車でテニスコートに通っては、お仲間と練習に励み、最盛期には、毎週試合にも出かけていました。
父親は、応援に行くことはなかったようでしたが、帰宅した母親の話しを聞き、励ましていたようでした。
この時代が、母親の人生の黄金期だったようです。
繰り返される「婦人テニス連盟」の話
意識も半ば混濁し、発話も不明瞭な母親ですが、テニスのことだけは、今も繰り返し話しています。
知り合いがお見舞いに来てくれると、誰彼かまわず
「あなたも婦テ連(婦人テニス連盟の略称)に入ってたの?」と問いかけます。
「フテレン(婦テ連)に入らなきゃダメ」
「やっぱり、フテレンね・・」といった調子です。
「フテレン」なるものが何者か、相手の方は戸惑っておられますが、そんなことはお構いなし。
母親は、「フテレン」、「フテレン」と連呼に次ぐ連呼です。
なぜ今、フテレンなのか
それにつけても、なぜ母親はそれほどまでに「フテレン」と連呼するのか。
夫が、「テニスをしていた時が、一番輝いていたんだろうな」と呟きました。
「きっとそうだね・・・」
母親として、妻としてではなく、テニスに打ち込み一個人として輝いた瞬間が、人生の最晩年を迎えた母親の支えになっているようです。
そう考えてみると、今となっては母親に輝ける日々があったことに、感謝するのみです。
自分は何を語るのか
翻って、自分は、最晩年を迎え、意識もあいまいになった時、いったい何を口にするのだろうかと考えてしまいました。
過去への後悔や恨みつらみでは、本当に辛い。
自分自身の魂が喜ぶような日々、それをあきらめずに積み重ねていかなければと、母から教えられています。
目を通していただき、ありがとうございました。
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