還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

足の指、1本1本と向き合う生き方

ギプス生活6日目を迎えております。

むくみ予防のために、「なるべく足を上げて」の生活が続くなか、ふと見ると、視線の先には、ギプスから出た5本の足の指が鎮座することの多い今日この頃。

顔のシミやシワ、タルミは気になって、毎日何回かは鏡を見るのに、これほど長時間、しかも連日、足の指の1本1本をくまなく見つめたことはかつてなく、「初体験」の日々でございます。

 

考えてみれば、この足の指。

若かりし頃は、ぎゅうぎゅうと靴のなかに詰め込んで、朝から晩まで長時間放置していたことも数知れず。

ブーツが流行った頃には、高温多湿の環境下、カビの餌食にしてしまったこともありました。

足の健康が言われて久しく、うすうす気になりながらも後回しにしていました。

 

そもそも、親指以下、小指までの5本の指。

1本1本を独立して扱ったことがあったでしょうか。

さすがに親指は別格としても、

「右足の中指の動きを良くしたい」とか、「左足の薬指の筋力をつけたい」とか。

 

私に限って言えば、いつも足の指は「ひとまとまりの足の指」。

目をつぶって触ってみると、足の人差し指、中指、薬指は、どの指を触っているのか、感覚がいまひとつ怪しい。

ことほど左様に、足の指は、身体のなかでも「日陰者」「みそっかす」でありました。

 

で、そのことに気づいた私。

ここ数日、ギプスから出た5本の指との「出会い直し」の日々でございます。

60年間、粗末に扱っていたことへの懺悔の気持ちをこめて、まずは触る、さするのマーッサージ。

次に、親指から順に動かす練習。

「ぐー・ちょき・ぱー」の親指じゃんけんなども少々。

優しく扱い、少しづつ少しづつ、5本の指を別々に扱う練習などしているうちに、紫色だった内出血の痕も薄くなりました。

そして、気のせいか血色も良くなり、しなびてくたびれていた足の指に生気が戻ってきたような・・。

 

たかが「足の指」問題ではありますが、考えてみればこれは私の今までの生き方を反映しているようでもあります。

「自分のことは二の次」

「見えないところは、後回し」

「うすうす気づいても、先送り」

そんな持ち主の犠牲になり粗末な扱いを受けつつも、長年にわたり耐えてきた足の指。

もう、ここいらで、そんな生き方からは脱却です。

外から見えようが見えなかろうが、「自分の足で歩く」という大切なことを支えてくれる足の指。

今回の骨折を機に、もうそろそろ、自分の身体のパーツをくまなく愛し大切にする、そんな生き方へのチェンジをはかりたいと思います。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

 

 

 

私は「母の日」が好きじゃない。

もうすぐ今年も「母の日」がやってきますね。

少し早めのプレゼントを渡して、お母様に感謝のお気持ちを伝えた方もいらっしゃるのではないでしょうか。

 

実は、先日、母の日をめぐって友人たちとこんな会話になりました。

「母の日って、ほんま憂鬱やわぁ、好きやないねん」と口火を切ったのは、お子さんのいらっしゃらないA子さん。

「ふむふむ・・」と頷く一同。

「そやなぁ、子どもがおらへんかったら、母の日は寂しいやろうなぁ」とB子さん。

 

そこへC子さんが、

「いやいや、子どもがおっても母の日、寂しい人もいてるで。ここに。うちんとこの息子たち、もう何年も、母の日やからって特別な連絡は一切なし。でもこっちは、母の日やから、今日はメールのひとつ、電話の1本ぐらいはかけてよこすかなって期待するやん。これでも朝から待ってんねんで。でも、ここ何年も何の連絡もなしや。寂しいというか、情けないというか。ほんで、フェイスブックやLINEで友達が、「こんなんプレゼントでもらいました」ってまわってくるやん。余計なんだか嫌な気持ちになんねん。母の日なんかなかったら、何の期待もせんさかいに、心も穏やかでおれんのに」と。

 

それを聞いたAさん。

「感謝される子どもは元々おらんから、それはしゃーないねんけど、感謝せんならん母親がまだ元気やから、話しがややこしいねん」と話し始めました。

Aさんによれば、Aさんとお母様は、「不仲な親子」。しかし、お母様にはその自覚がないらしい。A子さんはできるだけ離れていたいと思いながらも、母の日が近づくと「今年はこれがいい」とプレゼントのリクエストがあるそうな。お母様は80代半ば。

「あの年になって、よくもまあ、そんなに欲しいものが浮かぶもんやわ。物欲が凄いねん。そんな母親をみてるだけで、いやんなってくる」とAさん。

母親に対する複雑な思いを抱えつつ、気持ちとは裏はらに「感謝」を強いられることが苦痛だと言います。

「やって当たり前。そんなんほんまの感謝とちゃうやん。もう、いいかげん「母の日」卒業させてもらいたいわぁ」と嘆いていました。

 

そこへとりなすようにBさん。

「まぁ、欲しいものをハッキリ言ってくれるのは、逆に楽でいいやん。主人のお母さんへのプレゼントには、ほんと困ってんねん。あとから、長男の嫁はこんなんやったけど、次男の嫁はこれやとか、いろいろ未だに・・・。ほな、お金にしたらこっちも楽なんやけど、お金では心がこもってないって、ダメだししはんねん。誕生日に敬老の日、母の日と3回あんで。もう母の日はええわぁ」と。

 

そしてBさんは、

それより、「母の日」って、自分の母親のこと思い出さへん?それがいややねんと続けました。

「うちの母親は、高校生の時に癌で亡くなってんけどなぁ、今みたいにいい痛み止めもなくて、かわいそやったわぁ。なんにもしてやれんまま、亡くなってしもて・・。もう40年以上も前のことやのに、母の日が来ると思い出してほんま、切ないわぁ。あんなに早く死んでしまうんやったら、もっと優しゅうしてやればよかったとか、何であの時、あんなこと言うたんやろとか、そんなどうしようもないことばっかり思い出すねん。普段はころっと忘れてるのに、この時期になるとふっと過って、辛くなんねん。母の日、私も好きじゃないわぁ」と。

 

AさんもBさんも、そしてCさんも、それぞれのご事情から、「母の日」には複雑な思いを抱えておられるようでした。

「あれ、デパートの陰謀やないの?チョコレートと同じ。プレゼント買うてくださいっていうのに、うまく乗せられとるんと違う?」

 

考えてみれば、世の中の変化は著しく、お母さん不在の父子家庭や、事情があって母親と離れて暮らすお子さんもいらっしゃる。

お母さんになりたかったけれどなれなかった女性や、お母さんにはなったけれどお子さんとの縁の薄い母親、母親に感謝をと言われても、感謝できない子どもなど事情はさまざま。

母の日と言えば、カーネーションの花束とプレゼントを前に微笑む母親と子供たち。

そんな画一的なイメージが浮かびます。

「母の日って、なんや、幸せの押し売りみたいでかなわんなぁ」

そんな言葉に、深く頷く、「いろいろ訳アリ」な私たちでした。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

 

足を上げて生活するってどうよ?ギプス生活4日目

人間は、2足歩行。

左右交互に足の裏をしっかと大地につけて移動するのが常ですね。

ところが、先日の腓骨骨折以来、患側の足(私の場合、右足)をつくことができないばかりか、一日中、つまり昼夜を問わず右足を高く上げていなければならないという非常事態に突入いたしました。

 

というのも、骨折により、ダメージを受けた組織の毛細血管が破れ、血液やリンパ液をはじめとする体液の循環が滞り、骨折した足は、とてもむくみやすい状態。

そのうえ、ギプスで固定された足は、第二の心臓と呼ばれるふくらはぎの筋肉もほとんど動かないため、ポンプがうまく作動しない状態です。

ギプスのなかで足の浮腫みがひどくなれば、痛むのはもちろんのこと、神経が圧迫されて、腓骨神経麻痺なる後遺症が残ることもまれにあるようです。

 

ギプス治療においては、どのようにしてむくみを防ぐかが重要事項。

「足がやっぱりむくむんですけど」そんな訴えに、わが主治医は、

「足を心臓より高く上げてね。そうすれば、必ず良くなるから」という回答を繰り返すのみ。

 

入院してベッド上安静にしていれば、足を心臓より高くすることはできるかもしれませんが、普段の生活において、足を心臓より高く保つのは無理でしょう!

ご飯を食べ、多少の家事をして人と会い、PCに向かい、お風呂に入る。

そんな日常のなかで、ギプスを巻いた足をずっと上げている。

それも、可能な限り高く。

そんなこと、できるのでしょうか?

 

しかし主治医は、「それしかない」とおっしゃる。

最初は、「そんなこと、ムリよねぇ」と思っていた私も、何度尋ねても、同じ答えが返ってくる現状に、「やっぱりそれしかないのかなぁ」という気持ちに。

そこで、「足上げ作戦」をスタートさせたのでした。

 

眠る時には、クッションで足を上げ、椅子やソファーに座っているときには、自分が座っている椅子よりも高い椅子を用意して足置き台にし、床に座る時にはソファーに足をかける。

キッチンに立つときには、キャスターのついた椅子にギプスを巻いた足の膝をのせ、車に乗る時には前の座席シートの背に足をかける。

お風呂で身体を洗う時には、シャワーチェアに足をかける。

という具合。

心臓よりも高くすることはできないまでも、24時間中、23時間は、足を上げた状態であることは確かです。

おかげさまで、むくみもとれ、まずまずギプス生活は順調です。

 

それにしても、私は「通勤」という一大事業がないからこそ、何とかペースを乱さずやっていけるものの、お勤めがある方は本当に大変です。

松葉杖で歩くとなると、著しく体力を消耗し、かかる時間は3~4倍。

満員のバスや電車に乗り込むとなれば、当然足を上げているどころではなく、転倒の危険が常に伴います。

普段の日にも手荷物は持てず、雨の日には傘もさせません。

オフィスでの座業ならば足を上げていることもできるかもしれませんが、そうでなければそれも難しいでしょう。

 

人間の身体には、206本の骨があるとか。

そのうちのたった1本の損傷が、かくも生活に大きな影響を及ぼすとは。

今回身をもって体験した足の骨折のやっかいさ。

もう二度と繰り返したくないと、つくづく思う毎日です。

 

もう、梅雨入りした地域もあるとか。

足元がすべりやすいこの季節。

皆様も、どうかお気をつけくださいませ。

 

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

 

 

店主の善意がどうぞ生かされますように!まるかつ無料食堂の試み

昨日、奈良県奈良市のまるかつ食堂さんのお店の前に、

「もしとうしても、お腹がすいても、お家にお金がないときや・・」(

原文ママ)で始まる張り紙がお店の壁や看板に貼られたそうです。

 

店主からのメッセージはこちら。

marukatsu912.com

 

張り紙のメッセージは、平易な文字と文章。

お子さんが読めるように配慮されているのがわかります。

例えば、給食のない土曜日や日曜日、お腹を空かせて通りかかった店の前で、

「店長のおごりでコソッと無料」

「お腹いっぱい食べてもらいます」

そんな文章が目に入ったら、空腹を抱えた子どもはきっと天にも昇る気持ち。

どれほど嬉しいことか、想像しただけで胸が熱くなります。

 

例えば子供の誕生日。

せめてこの日だけはお腹いっぱい食べさせたいと思っても、それもできない現実に自分を責め、申し訳なさと不甲斐なさで胸の潰れる思いを抱いている親御さんもいらっしゃるでしょう。

そんなとき、この張り紙が目に入ったら、本当に救われるような気持ちになるのではないでしょうか。

しかも、「出世払い」。「忘れてもかまわない」。「世の中お互いさま」。

こんな夢のようなことがあってもいいのかと思えるほどです。

 

実は、店主の方は、以前に、お金のない方に無料でお弁当を差し上げていた体験をお持ち。

でも、どうやら相手の方が善意に甘え?要求がエスカレートするという苦い体験がおありのようです。

そんな失敗があっても、めげることなく、今回の試みをスタートさせようという店主のお気持ちを思うと、「どうしてもやらずにはおられない」という強い意志を感じます。

 

ただ実際に行動に移すとなると、決してたやすいことではないはず。

自分が店主だとしたら、

・売名行為だと受け取られはしないか、

・希望する方の電話が殺到しないか、

・本当はお金があるのに、偽る人もでてくるのではないか

・普通のお客様に迷惑がかかるのではないか

・他の飲食店に迷惑がかかるのではないか

・お店全体の採算が合うのだろうか

・逆に誰も希望する人がいないかも知れない

・自分がひとり行動を起こしても、貧困の問題は何も解決しないのではないか

 

などなど、「できない理由」「やらない理由」を探し出して、「考えたけれど、やっぱり難しい、ムリ」という地点に自ずと着地してしまうような気がします。

 

こうした試みは、店主の善意と、必要としそれを受け取る側の良心、そしてそれを見守る人々の善意やモラルが揃ってこそ、うまくいくものですね。

このお店が傍にあったなら、せめて足しげく通って応援するのに・・。

そんなことを思いつつ、目を通したひとつの記事でした。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

 

 

私は、ブログに何を求めているのか?

今朝、実は別のことを書こうと思っていましたが、ゆきにーさんのこちらのエントリー拝見し、気持ちが変わりました。

(ゆきにーさん、ご了解いただいていないままの引用ですみません。不都合がございましたら、すぐに削除いたします)

 www.ituki-yu2.net

 

ブログを長く続けていると、自分を偽り続けるのはほぼ不可能。そこには書き手の本性が現れるというエントリーでした。

 

これには深く同意です。

私も、はてなブログを始めて1年余り。

読者登録をさせていただいている方や、日本ブログ村でご一緒させていただいている方のブログを拝見していますが、記事に、そのブロガーさんなりのお人柄がにじみ出ているのを感じます。

なかには、ほとんどが写真で構成されているブログもありますが、その写真の構図や遠景にさりげなく写っているあれこれに、その方のお人柄を感じることがあります。

また、情報提供を主とした「情報系」のブログも拝見しますが、その一見、無機質な?文章のなかに、その方の人となりを感じることがあります。

ブログのエントリーの内容は、その時々で変わっていますが、そのブログに一貫して流れている変わらない何か、それが、ブロガーさんの「ひととなり」のような気がしています。

 

そして、長く拝読させていただいているブログは、そのブロガーさんの「人となり」がかなりのウエイトを占めているような・・。

年齢や生活状況の違いから、分かち合える情報は少なくても、そのことに対するブロガーさんの取り組み方や姿勢、考え方から、気づくことは少なくありません。

 

そもそも、私はブログから何を受け取っているのでしょう。

それは、何らかの情報と、「癒された、励まされた、共感した、笑っちゃった」などの情緒的な反応に分かれるのではないでしょうか。

情緒的なもののなかには、「反発、反感、怒り、嫉妬」なども、もちろん含まれます。

ただ、あるエントリーにすべての人が、励まされるわけでもなく、反発を感じるわけでもありません。

私がそのエンリーに、「励まされた」のであれば、その「励まされた」事実のなかに、「反発」を感じたのなら「反発」を感じたその事実のなかに私らしさがあるのでしょう。

そう考えてみると、ブログを拝見することで、「私」自身も見えてくるのだと再認識。

 

翻って自分のことを考えてみると、皆さんに有用な情報を提供し続ける体験の豊富さもありません。

ただ、日々感じたことを1000字程度にまとめて文章にする作業が、今のところ気に入っています。

文章にまとめてみると、自分の考えが整理されていくちょっとした快感も感じ、小さな達成感が生まれます。

 

今の私のブログに対するスタンスは、

流れてくるエントリーからブロガーさんのお人柄を感じ、時々自分をみつめ、考えを整理して日々の小さな達成感を積み重ねるといったところでしょうか。

ありゃりゃ、何だか、かっこつけすぎですね 汗。

 

ともかく、明日、突然、パタッと更新が止まらないよう、何とか更新をかさねていきたいと思います。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

 

 

 

介助される側になって実感した夫との微妙なズレ。でも、これって老親介護でもあったこと。

松葉杖生活1週目の先日、借りたい本があり、図書館へ行ってまいりました。

実は夫。

私が松葉杖生活になってから、やたらと張り切っています。

介護士さん向き?頼りにされるのが好きなタイプ?

いえいえこれ以上、相棒にトラブルが発生して、面倒なことが自分にふりかからないよう、リスクマネジメントに努めているのだとか。

トイレにいくにも、どこに行くにも、「どこへ行くの?大丈夫?」と声かけを怠りません。

 

そんな夫。

図書館では、車いすを借りるのだと事前に車椅子置き場を調べ、車は近くの駐車場へ。

一足先に車椅子を借りて、車まで戻ってきました。

さっとドアを開け、車椅子を斜めに寄せ、「はい、どうぞ」。

ちょっとしたセレブ気分で「ありがとう」とお礼を言う私。

ここまでは良かったのですが・・。

 

車椅子に「よっこらしょ」とお尻を乗せて、態勢を整えようとしているのもかかわらず、夫はそんなことおかまいなしに車椅子を引き、方向転換。

「ちょっと待って!、足、足がのっかってない!!」と悲鳴に近い私の叫び。

骨折しているのは足首なのですから、地面に引きずったままでは車椅子の意味がないどころか、地獄でしょ。

「ごめん、ごめん」と言いつつ、足が乗ったのを確認すると、今度は足早に車椅子を引いて、図書館のカウンターにまっしぐら。

 

夫にしたら、走っているわけでもなく、ちょっと「速足」ぐらいのスピードなのでしょうけど、乗っている私にとってみると、「うわっ!はやいー!!こわいっ!」という感じ。

座っている目線に映るものがどんどん行き過ぎて、身体が投げ出されるような感覚を覚えました。

「ちょ、ちょっと、ゆっくりお願いできませんんか」と声をかけ、やっと「速いかな、ごめん」と気づく夫。

 

そして夫は、車椅子で来ているのだから、できるだけ早く欲しい本がみつかった方が楽だと思い、スタッフに本を探してもらっていました。

ただ、私といえば、せっかく車椅子で来たのだから、自分でじっくり探したいと思ってみたり。

ことほど左様に、押している夫と、押されている私とは、感覚にズレあることを感じました。

 

それにしても生真面目な夫は、

「楽に、できるだけ短時間で目的を達成する」ことに頭がいくもよう。

ただ、当人としては、楽しみや満足感も大事にしたいというわがままも。

 

そして、自分が介護される側になって、ふと気がつきました。

これって、私と両親との間でもあった話しです。

安全に、できれば短時間で必要なものをゲットして買い物を済ませたいという私と、あちこち見てみたいという両親。

 

どうしても、当人の満足よりも、介護する側のペースになってしまいがち。

なるほど、こういうことなんだと、実感した出来事でした。

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村

ギプスな日々は動画でお絵かきのお勉強。

腓骨を骨折した右足。

少しは腫れがひいてきた感じ。

明日は、予定通り、ギプスが巻けるのでしょうか?

そんな期待?もふくらむ月曜日の朝でございます。

 

何とかこのアクシデントを「災い転じて福となす」にしたいと企む私。

まず手始めに、なかなか腰を落ち着けて取り組めなかった水彩画に、チャレンジすることにしました。

 

水彩画は、絵画のジャンルのなかでも取り組まれる方が最も多いと聞いています。

小学校から親しんだ絵具、画材がリーズナブルで扱いが簡単。

そんなことも人気の秘密だと聞いていますが、皆さんはどうやって水彩画の基本的な技術を身に着けられるのでしょうか?

都市部ならば、たくさんの水彩画教室が開催され、きっと選り取り見取り。

ただ、当地では、一般的な絵画教室はあっても、水彩画に特化した教室は見当たりません。

 

これは、何とか自分で学びの方法を見つけないと・・。

で、みつけたのがこちらの動画。

水彩画家の柴崎春道氏の動画サイトです。

 

www.youtube.com

 

「ああ、こんなふうに描けたらなんてステキなんだろう」とため息が出る作品の数々。

そして、先生自らが、実際に描きながらポイントを説明してくださるので、真似をして自分なりに描くことができます。

もちろん、先生の作品とはほど遠い出来栄えではありますが、それでも少しづつ要領がわかってくるような気がするから不思議です。

 

そして動画のなかでは、技術的なことだけではなく、

「絵とは何か」といった本質的なことが語られていて、「なるほどねぇ・・」と膝を打つことばかり。

動画を見ていると、いつか自分も訪れた場所をささっとスケッチできるようになりたいと気持ちが逸ります。

何事も、基本がなければかなわぬこと。

とにかく、手を動かして、身体に覚え込ませたいと思います。

 

あれも描きたい、これも描きたいと思っていたら、到底全治3か月では足らなさそうな予感。

今日はあいにくの雨。

それでなくても足元が悪いので、お家でお絵かきを頑張ります。

 

 

 

 

 

目を通していただきありがとうございました。

あしあとを残していただけると励みになります。 


にほんブログ村