還暦からの再起動

お料理レシピ、時々、遠距離介護や病気との付き合いなども。人生の下りを楽しむ還暦女子の日常です。

パートナーを看取った後、男は弱く女は逞しいを実感

昨日、日帰りバス旅行に行ってきたという友人が、お土産をもって訪ねてきてくれました。

その友人は、60代後半。

数年前にご主人を癌で亡くし、両親も見送り、仕事もリタイア。

今は、趣味と旅行に生きる悠々自適の生活を送っています。

 

今が一番幸せ

バス旅行の参加者は、ほとんどシニアの女性だったとのこと。

男性は、ご夫婦で参加された3組のみ。

80歳は超えていると思われる方も数名いらっしゃり、友人は、そのなかのお一人とたくさんお話しをしたそうです。

その方は、82歳。昨年5年間の介護の末、ご主人を亡くされ、1周忌があけたのを機会に、バス旅行に参加されたのだとか。

「こんなこと言っちゃなんですけどね、もうホント『やっと』っていう感じなんです。

『お寂しいでしょ』って言われるけど、ゼンゼン!悔いなんかないですし。

まだ何とか自分で歩けるうちに遊んでおかなくちゃ、時間がないですものね。

主人には悪いけど、今が一番幸せなんです。この年になって!」

その方は、張りのある声でそう言うと、コロコロ笑っておられたそうです。

 

男の人は、ガクッと来るね

友人は、「女の人は逞しい!強い!それに引きかえ、男の人はダメやね~」と。

妻亡きあと、自宅に閉じこもりがちになって足腰が弱くなり、ついついお酒に手が出て糖尿病が悪化。最後は寝たきりとなってしまった実家のお父様のことを話していました。

そう言われれば、私の実家の父も、母親が倒れた時の狼狽ぶりは甚だしく、物忘れがひどくなり、高熱を出したり転んだり。

母親もさることながら、これでは父親が先に逝ってしまうのではないかと慌てたことを思い出しました。

「奥さんが病気になったり亡くなったりすると、男の人は、ガクッと来るね」と友人。

ご近所の、一人暮らしの男性シニアの方のお顔が何人か浮かび、「そうね~」と思わず相槌を打ってしまいました。

 

「どうしてなんだろうね?」

そんな問いかけに友人は、「男の人は、付き合いの範囲が少ないもん」と。

そもそも男性は、これといった趣味を持たない人も多く、定年退職をした後は、奥さんが唯一の話し相手の場合が少なくないとか。

家事にも不慣れで、奥さん亡きあとの生活に適応しにくいのもひとつの要因かも知れません。

そして、男性は孤独に弱い?

男性、女性に分けて一般化するのは、乱暴というもの。

ただ、女性は男性に比べ、一人暮らしになった後も、「生活を楽しむ」術を多く持っているような気がします。

先ほどの、独りでもバスツアーに参加された高齢女性もしかり。

あらかじめ、ライフプランのなかに、夫を見送った後の生活設計を頭に入れ、趣味や友人のネットワークを作っておくなど、それなりの準備をしている方も少なくないような気がしています。

 

そして、我が家の場合。

去年から、私の二つの癌がみつかり、本人よりも凹んでいたのは夫です。

「大丈夫!、ごく早期なんだから」

「でも、癌は癌。ボク、独居になるのかな?ヤダ、独居反対!」

そんな子供じみた会話を笑いながら交わした私たち。

やはり、私が先に逝くことへの恐れがあるようです。

たとえそうなっても、夫が周囲の人に支えられながら楽しく生きていけるように、

もちろん自分が後に残っても、残りの人生を楽しめるよう、

今からこの地の人とのご縁をより大切にしたいと思っています。

 

 

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田舎暮らし、ご近所さんとの距離感:農家派と漁師派

都会から田舎へ転居した友人。

玄関のベルを鳴らすこともなく、「〇子さん、いるぅ~?」と近所の方が家の中に入ってくる地域の風習にも馴染めず、長年ストレスを抱えていたようでした。

そう言えば夫の田舎でも、帰省するや否や、車庫の車を見つけて、

「〇ちゃん(夫のこと)、帰ってきたやねぇ・・」と両隣の方が顔を見せてくれていました。

そして、夕方には、「これ、食べてみて」と大皿に盛り付けられた天婦羅を大事そうに抱えたおばさまが、もちろんベルを鳴らさず、台所に。

ご近所さんとの距離の近さに、驚いたこともありました。

 

当地の農家の場合

昨日、お茶をしに来てくれた近所の友人と、ご近所付き合いについてひとしきりおしゃべり。

この地に生まれ育った友人は、「ここも田舎やけど、農家と漁師では、そこんところが違うのよ」と。

友人曰く、農家の場合は、近所の人が家の中に上がるのは、お祝い事や法事など改まった時のみ。

日常的には、玄関で対応することはほとんどだとか。

どの家も、玄関は広く、上がり口に続くスペースには通常、座布団が常備されていて、そこで話したり、お茶を出したり。

どの家も、玄関と次につづくスペースは、いつもきれいに整えられているのだとか。

近所の人でも、キッチンやリビングに入ることはほとんどなく、家に上がる時には、2間続きの広い座敷に通される。

そう話していました。

 

漁師の場合

ところが、漁師の場合には、様相が一変するのだとか。

近所の人は、遠慮なく台所に入り、一緒に作って、できたお料理を分け合ったり。

「勝手知ったる他人の家」を地で行くような距離の近さ。

「一度海に出たら、生死を共にする仲間」という想いが、垣根を低くしているのかも知れない、と友人。

「なるほどね・・」

人口5万人ほどの小さな田舎町。そのなかでも、漁師町と山沿いの農家が密集する地域では、ご近所付き合いの様相は異なっているようです。

 

私たちの場合

当地に転居して6年。

実は、夫、人との付き合いがあまり得意ではありません。

ご近所の方との距離が近い田舎に育ったことが、かえって人付き合いを苦手にさせたようです。

そもそも、リタイアしてまで、人付き合いに悩まされたくないという気持ちもあり、ごく親しい人と、密接な関係を保つのが、今の私たちのスタイルになっています。

親しくお付き合いさせていただいているのは、6~7人程度。

一緒にお料理をしたり、ご飯を食べたり。お互いの自宅を行き来しています。

ごくごく限られた友人との間で、「漁師派」のお付き合いというのが、今の私たち。

ごく親しくお付き合いできる友人に恵まれた幸運に感謝しています。

 

 

 

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家を出る、その決断。友人の背中を押したものは

25年間の結婚生活にピリオドを打った友人。

結婚生活の大部分、20年ほどは、夫への違和感、気持ちの通わない辛さや孤独感を抱え、人知れず悩んでいたようでした。

 

20年、友人をそこに留まらせていたものは

元ご主人との溝を抱えながらも、離婚を踏みとどまってきたもの、それは、まず子供の存在が大きかったようです。

母親としての役割を果たさなければならないという責任感。

老いた両親に心配をかけたくない、かけてはならないという思い。

そして、離婚後、独りで生活していけるのかという不安。

さらに、地方の小都市ゆえの世間体意識。

これらのことがいつも頭の中にあったようです。

 

離婚を現実的に考えるようになったのは

そんな友人が、離婚を現実的に考えるようになったのは、相次いだ両親の死。

「子供がいるんだから我慢しなさい」

「悪い人じゃないんだから、何とかうまくやりなさい」

いつもそう言っていた両親がなくなり、心配してくれる人がいなくなった喪失感と同時に、「これで自由に生きられる」という解放感も。

友人に、いまは亡き両親の家、実家に住むという選択肢が与えられました。

さらに、子供たちが大学進学し、次々に家を出ていったことも大きなきっかけに。

子育ててに費やす時間が減り、友人は資格取得の勉強に取り組むことができました。

 

最終的に彼女の背中を押したものは

住む家が確保でき、両親が残してくれたもので、生活基盤の大凡のメドだ立った友人。

資格を生かして、働く道も拓けてきました。

ただ、当時まだ中学生だった末のお子さんのことが気がかり。

そんな時、元ご主人が帰って来る時間が近くなると、決まって心臓がドキドキと脈をうち、息苦しくなり、異常に発汗して手足が冷たくなるということが起こるようになってきました。

更年期障害にしては、いつも起こるのは元ご主人の帰宅時間。

「こんなにも自分を痛めつけてまでここにいることはない」

友人は、そう決断したしたそうです。

 

身体から発せられる警告が、彼女の背中を最終的に押してくれたようでした。

「子供たちのために」

「両親に心配をかけないために」

「世間からあれこれ言われないために」

頑張ってきた友人。

「私、ずっと自分を大切にして来なかったんだなぁって、つくづく思ったんです」

「もういい加減にしなさいよ!って、身体が怒ったんだと思います」と友人。

頑張って、頑張って、無理をして、無理をして、やっと自分を大事にすることに気づいたようでした。

ただ、ここまで追い込んだからこそ、何の迷いもなく、新たなステージに踏み出していけるのだとも話していました。

 

まだまだアラフィフ。

きっといつか、心を通い合わせ、友人のあるがままを受け止めてくれるパートナーと出会い、幸せな第2の人生を歩んでくれることを願うばかりです。

 

 

 

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愛情を傾けるとはどういうことなのか、考えさせられた友人の離婚

昨日、久しぶりに友人と再会しました。

その友人は、アラフィフ。1年半前に25年間の結婚生活にピリオドを打ち、現在一人暮らし。

ランチを共にしながら、友人が語った離婚に至った経緯とは・・。

 

亭主関白タイプの夫

元ご主人は、地方の小都市で実家の商売を継ぎ、その地域ではやり手の経営者。

仕事熱心で、生活費もキチンと入れてくれるし、所謂「飲む、打つ、買う」とはほぼ無縁の人のようです。

友人は、お金の苦労をしたことはなく、夫の女性関係に悩まされることもなかったとのこと。

ただ、このご主人、今時珍しい亭主関白タイプ。

「オレが養ってやってるのに」「女は家事をするのが当然」「女房が働けば、オレの顔が潰れる」と公言してはばからず。

友人は、結婚を機に仕事を辞め、3人の子育てに専念。

ほとんど自分の時間を持つこともなく、炊事、洗濯、掃除、子供の塾の送り迎え、地域の付き合いに時間を費やしてきたとのこと。

もともと、家事が苦手な友人。

「なかなか段取り良くできなくて。もっと遊べば良かったんだけど、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃと自分を追い込んじゃった」と話していました。

 

田舎の気候や風習にも馴染めず

25年間の結婚生活。都会で過ごした始めの2~3年は楽しい日々が続いたものの、実家の商売を継ぐために田舎に転居してから、歯車が狂い出しました。

転居した先は、山々に囲まれた盆地。

いつも視界を山に遮られ、日照時間も短く、冬は冷え込みが厳しくかなりの降雪もあるようです。

「だんだん、息が詰まってくるんです。そこにいるだけで」都会で育った友人はそう話していました。

そして、周りは古くからそこに住む土地の人々。

「〇子さんいる~?」とチャイムも鳴らさずいきなり家のなかに入ってくる近所の人にびっくり。

プライバシーがまるでなく、いつ人が入ってくるかわからないその土地の風習にもなじめなかったようです。

 

話し合えなかった二人

「もっと話し合えれば良かったんですけどね」と友人。

「ここにいると、いつも山に視界が遮られて息が詰まる」と友人が訴えても、「こんな自然豊かなところのどこが悪い?」と元ご主人。

常に正論で諭すように話すご主人と、感覚的な友人。

「いやなの」「しんどい」「辛い」というメッセーを発すると、「なぜ?」という理由を求められ、正当な理由もなくそう感じるのは、我儘だと却下される。

そんな関係だったようです。

そして、次第に病んでいき、鬱状態に。

限界を感じ、下のお子さんが高校進学を機に別居し、離婚に至りました。

 

夫婦の相性

友人も言うように、ご主人は仕事熱心で、そこそこ家庭も大切にする「いい人」。

ただ、二人の相性が良くなかった・・わたしにはそう思えました。

家事や育児を生きがいとし、元ご主人のようなタイプの男性を頼りがいがあると感じる女性ならば、双方共にハッピーだったかも知れません。

ただ、友人の場合は、「正論で迫る夫」と「感覚的で説明が苦手な妻」との組み合わせ。

「どうせ言ってもわかってもらえない」「言うだけ無駄」「自分を抑えるしかない」

そんな積み重なりが、とうとう友人のなかで限界を超えてしまったように感じました。

 

感情をまるごと受け止め一緒に考える

それにしても、夫婦で話し合うとは難しいものですね。

友人からの一方的な話しなので、深い夫婦の関係性についてはよくわかりません。

ただ、友人が、「自分が大切にされている」「愛されている」という感覚が持てないまま過ごしたことは事実のようです。

「自分がどう感じようとも、理屈抜きで、夫は私の感情を受け止めてくれた」

「そして、どうしたらお互いにハッピーになれるのかを一緒に考えてくれた」

もし、そんな体験が友人にあったら、夫婦の関係性はより深まっていったような気もしています。

パートナーを大切にするとはどういうことなのか、愛情を傾けるとはどういうことなのかを考えさせられた友人との再会でした。

 

 

 

 

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人生の最晩年に与えられた「忘れる」ことの幸せ

先日、叔父を見舞い、その足で母の入院先に向かい、帰りに姉と父で夕食を共にしたときのことです。

母は、あまり運動機能の回復は見られないものの、意識はかなりハッキリしてきました。

帰り際には、父の手を握り、

「お父さん、来てくれてありがとうね。身体に気を付けてね」

「また来てね、寂しいから」と父に甘えます。

そんな母を前に顔を見合わせる私たち姉妹。

姉が、「お母さん、昔はずいぶんお父さんに苦労させられたのに、忘れちゃったの?」と問いかけると、

「そんなことは忘れちゃった。みんな忘れちゃった」と母。

「へぇ~」と再び顔を見合わせる姉と私。

 

反面教師だった両親

思えば母は、何度、「もう限界、お父さんと離婚する!」と叫んだことでしょう。

いつも父親の顔色を窺って生きて来た母。

少なくとも若いころの私には、母親に経済力がないがゆえに、暴君に一生支配されていきなければならないように映っていました。

両親は反面教師。

何が何でも自立して生きられる自分でありたい。

男性に依存しなければ、生きられないような自分にだけはなりたくない。

そんな強いメッセージを受け取りつつ育ってきた私たち姉妹にとって、ここに来て母親の、「みんな忘れちゃった」という言葉は、やはり複雑でした。

 

つまらんことなんて、みんな忘れちゃう

そして、夕食。

父親は、黒毛和牛のカツ定食と生ビールでご機嫌。

途中で、冷酒1本を追加し、ますます上機嫌。

姉と私で、昔のあれこれを話しても、聞いているのやら聞いていないのやら。

「お父さん、若いころのこと、覚えてる?」

「いろいろ苦労もしたし、お母さんともいろいろあったけど、覚えてる?」と問いかけてみました。

父親は、「若いころのことなんて、覚えてないなぁ~」と。

「でも、忘れるって幸せなことだよね」と姉。

「そう、つまらんことなんて、みんな忘れちゃうんだよ、この年になると」と父。

そして、最後の冷酒をグイッと飲み干しました。

 「忘れた者勝ちだよね・・・」姉が呟きました。

 

肩透かしをくらったような・・・

私たち姉妹の心の中には、まだまだはっきりと刻みつけられている両親の過去。

DV夫と知りつつも、離れられない妻。

でも、その記憶は、当の二人にはもう残っていないようです。

あれほど数々のエピソードを残してきたというのに。

何だか肩透かしをくらったような複雑な気持ちになりました。

 

でも、考えて見れば、「つまらんことなんか、みんな忘れちゃう」って何って幸せなことなんでしょう。

かくいう私も、リタイア後に、現役時代のアレコレを思いだしてフト気持ちが沈むことがありました。

若かった頃の未熟な自分に、溜息がもれることも。

もう、過去のことは変えられないとわかってはいてもです。

でも、年重ねて行けば、「つまらないことは忘れる」力を手に入れることができるかも。

黒毛和牛のカツに舌鼓を打つ父親が、何とも幸せそうに見えました。

 

 

 

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「最後の最後、安らかに看取るための入院」は、ありえない?

アルツハイマー認知症で在宅療養を続けていた叔父。

発病後6年目にして寝たきりとなり、やがて食事が摂れなくなっていきました。

しばらくは、かかりつけの医師の往診による点滴で頑張っていましたが、

その点滴も入らなくなり、叔母は、「もう限界」だとして入院させることにしました。

ギリギリまで自宅で介護したけれど、餓死していくのを見ているのはやはり辛い。

最後の最後だけ入院させて、医療者の見守りのもとに安らかに看取りたい、そう希望しての入院でした。

 

延命はしません。胃瘻もつくりません。ところが・・・

叔母は、入院当初、「もう覚悟はできています。延命は本人が辛いだけだし、胃瘻もつくりません」とハッキリ病院側に告げていました。

ところが、入院して4~5日後のこと。面会にいったところ、鼻から栄養を入れるチューブが入っていたとのこと。

「えっ!とは思ったけれど、一度入れたものを抜いてくださいとまでは言えなかった」と叔母。

「胃瘻とは異なり、鼻からのチューブは、一般的にはそれほど長く入れておけない。一時的なもの」との説明を受けたようです。

ところが、1週間に1度のチューブ交換を繰り返すこと1年弱。

このチューブから入る栄養と薬で、意識のないまま叔父は生き続けました。

「最後の最後、安らかに看取るための入院」という叔母の見込みは、大きく外れていきました。

 

そして、今回迎えた危篤の場面。

鎖骨下の静脈に点滴が入り、昇圧剤、利尿剤、抗不整脈剤などなど、弱った心臓を動かすための薬剤が各種。

血圧計、酸素濃度測定器、心電図などの測定機器につながれた叔父。

「安らかに看取る」とはかなり異なる様相で、人工呼吸器こそ入ってはいないものの、そこではまさに延命治療が行われていました。

 

延命せざるを得ない医療者

患者・家族側から見れば望まない治療であっても、これをすれば、この薬を使えば、当面の死を回避することができる、延命できることがわかっていれば、そうせざるを得ないのが医療の倫理なのかも知れません。

それが嫌ならば、「入院している意味はありませんね。自宅に戻るか、介護施設にどうぞ」という話しになるのでしょう。

入院している以上は、生きるという方向で治療を受けざるを得ない。

叔父を見ていて、「安らかに看取る」ための入院は、癌終末期の緩和ケア、ホスピス病棟でもない限り、困難な現状を知りました。

 

「安らかに看取るための入院」、現実的にはまだまだ難しい

さてはて、自分や夫が、同じような状況になったらどうするか。

夫は、とても怖がりなので、弱って死に近づきつつある私をとても看ていることはできないでしょう。

ただ、夫の時には、叔父のようにはさせたくない。

「安らかに看取るための入院」、現実的にはまだまだ難しいことを、肝に銘じておかなければと思います。

 

 

 

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それでも心臓は動き続ける

昨日は、危篤だった叔父のお見舞いに行ってきました。

ちょうど私の手術の日に、「危篤」という知らせをうけていましたが、なかなか駆けつけることができず気になっていました。

その後、何とか持ち直して、無事に会うことができました。

 

叔父は、77歳。

7年前にアルツハイマー認知症を発症。叔母が自宅で介護を続けてきましたが、1年前に食事がとれなくなり入院。

療養型病棟で手厚いケアを受け、今に至ります。

 

渾身の力を振り絞っての呼吸

会った叔父は、数か月前から意識ははハッキリせず、完全に寝たきり。

酸素マスクからは、7ℓの酸素。

鎖骨の静脈から点滴が入り、エアマットに横たわる身体は、まるで骨格の標本のように痩せて、手足の皮膚は薄くなって浮腫んでいました。

呼吸するたびに胸が大きく上下し、「スー、ハー」と渾身の力を振り絞って呼吸する様は、やはり痛々しいものでした。

1分間に約20回。1時間に1200回。1日に2万8千回あまり。

もう、休ませてあげたい、正直なところ、そう思ってしまいました。

 

若いから心臓が丈夫

危篤状態だった時には、心拍数が200近くに跳ね上がり、血圧も80前後。尿量も減っていたようですが、今は心拍数も血圧も安定し、尿量も回復。

「先生から、若いから心臓が丈夫」だと言われたと叔母。

「もう、いつ逝ってもらっても悔いはないんだけど、まだ頑張ってくれてるのよ」と話していました。

心臓が動き、自力で呼吸する力がある叔父。

自分の意思の及ばないところで、自分の心臓は働き続け、呼吸を続けなければならない状態にある叔父。

叔父の「生命力」には、脱帽するとともに、複雑な気持ちにもなりました。

 

最後まで果敢に頑張りぬいた存在

そろそろ自分の最期について考える年齢になった私。

将来、重い病の床について、人生でやり残したものもなく、生ききったと感じていても、丈夫過ぎる心臓に翻弄され、無理やり呼吸を続けなければならないような状態になるかも知れないと考えてしまいました。

「生きたい」から生き続けるのではなく、心臓が動きを止めないから生き続けなければならない。

自分の持ち物である心臓。

1滴の力も残っていないほどに、そこまで頑張らなければ、楽にはなれないのかと考えさせられました。

ただ、これから叔父のことを思いだすたびに、最後まで果敢に頑張りぬいた存在として、私の背中を押してくれるような気もしています。

 

 

 

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