パン屋で商品を落としたらー老いの心得。
先日のことです。
一緒にお茶をしていた友人が、興奮した様子で話し始めました。
ひとりの上品なマダムが
友人がお気に入りのパン屋さんで、お目当てのパンを買おうとしていたときのこと。
開店時間直後のそのお店には、まだお客さんもまばら。
そこへ、背筋が伸び、年の頃は70歳代。ひとりのセレブ風マダムが入店してきました。
彼女は、真っすぐにハードパンのコーナーに進みより、600円ほどのブールをひとつ自分のトレイに置き、さらに、他の商品をあれこれ物色。
そして、他の商品をひとつトレイに置こうとした時、左手で支えていたトレイのバランスが崩れ、ブールが床に転がり落ちてしまったそうです。
「あらっ!」それに気づいた友人。
するとそのマダムは、何事もなかったように床に落ちたブールを素手で拾って自分のトレイへ。
そのままレジへ進むのかと思いきや、なんと!マダムは、ブールの並んでいたコーナーに近づき、そして、落ちたブールを戻し、新しいブールをトレイに置いて、レジへと。
何事もなかったように会計を済ませ、店を出て行ったとのことでした。
「あっけにとられるとはこのことだわ」
友人は興奮気味に話していました。
「ああいう時、何ていえばいいのか、『あの人、落としたんです』って言ったって、店員さんが見ていなければ、言いがかりをつけたようにもとられるし・・。ほんと、困っちゃった」と。
結局友人は、見て見ぬふりを決め込み、買物を済ませて店を出てきたものの、何となくスッキリしないと私に訴えたのでした。
「ああいう時、どうすればいいんだろうね」と友人は、自分が取るべきだった行動を考えあぐねているようでしたが、むしろ私は、その上品マダムのことがとても気になりました。
どうして、なぜ、彼女は、落ちた商品を戻したのか?
・どうせ誰も見ていないと思った?
・床に落ちたって、大丈夫、食べられると思った?(ただし、自分はイヤだけど)
・落としたことを申告するのが面倒だった?
・落としたことを申告すれば、自分の恥をさらすようで嫌だった?
上品マダムの気持ちを考えると、そのどれもが自分のなかにも多少は潜んでいるよう気がしてなりません。
人前で「やらかして」しまった時、どうやって事態をうまく収めるのか
これから年齢を重ねれば、きっと自分も、「落とす」「こぼす」「つまずく」「壊す」「ころぶ」「見落とす」「遅れる」「汚す」などなど、人も自分も困惑させることのオンパレードになるでしょう。
思いもかけず、人前で「やらかして」しまった時、どうやって事態をうまく収めていくのか、その方法を見出したい。
それは、できれば、「さすが、年を重ねていらっしゃるだけあるわ」と言われるような方法が望ましい。
これは日ごろから、イメージトレーニングをしておかないと、とても咄嗟の事態には対応できないと夫とも話しました。
それにしても、その後マダムは、このことをすっかり忘れておられるのだろうか?
もしも私なら、床に落としたパンを誰かが食べたことを想像して胸が痛くなり、もう二度とあのパン屋には行けないと思い詰めたり・・・。
パンの代金600円には到底替えられない痛みや後悔を背負ったような気がします。
老いの心得として、老いがもたらす失敗は避けられないとしても、せめてうまくそれに対処する人間力だけは持ちあわせていたい。
そう思った午後でした。
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88歳父の食欲と老い方の心得
先日帰省した時のこと。
午後、姉夫婦、父親の3人と、母親の入院する病院で合流。
病室の母を見舞った後、早めの夕食を共にすることになりました。
ビッグカツ定食を注文
入ったのは、父親の指名によるトンカツの専門店。
父は、座るなり生ビールを注文し、その後ゆっくりメニューを吟味して、「ビッグカツ定食」を頼みました。
運ばれてきたのは、草履ほどの大きさのあるロースカツと山盛りの千キャベツ。そして、豚汁。それに、小丼に盛られたご飯と小皿に入ったすり下ろした長芋に漬物。杏仁豆腐のようなデザート少々。
それは、外で身体を激しく使って働く若者には丁度良い量かも知れませんが、88歳の高齢者には、余りにも多すぎる量。
歯がないことなどもものともせず
「お父さん、無理しなくてもいいよ。食べられなかったら、残してね」
そう声をかけて、父親が食べるのを見守っていましたが、父親の箸は止まることなく、ほぼ完食!
父親は、50代半ばから急に歯が弱くなり、前歯は4本抜けたままです。
奥歯も、残っているのは数本のみ。
何度も入れ歯を作りましたが、どうしても慣れることができず、放置したまま。
歯医者さんからは、「ほとんど丸飲みの状態」と言われましたが、結局、入れ歯なしでの生活が続いています。
その父親が、草履のようなトンカツをなんと完食。
もちろん、娘の私よりもしっかり食べ、さらに、日本酒2合もいただき、上機嫌。
姉によれば、この日はランチも外食。
天ぷらときしめん、鉄火丼、小鉢の煮物のセットをほぼ平らげ、食後にコーヒーと小さなケーキも食べたとか。
驚くべき食欲です。
食欲の底にある「生への執着」
父親の食欲には、本当に驚きました。
「なんだ、私たちよりよく食べるんだ、お父さん」
「あれだけ食欲があれば心配ないね、生きる気満々だね、お父さん」
父親の食欲の底にある「生への執着」。それを感じて、頭を垂れるしかないという気持ちになりました。
自分が88歳になったとき、これほどの食欲、そして、これほどの「生きたい」という気持ちを保っていられるかどうか、全くもって自信がありません。
ほんの少しでいいからエレガントに老いたい
それにしても、父親の食べている姿には圧倒されました。
眼鏡をかろうじて鼻にひっかけ、犬のように食器に顔を近づけ、上あごと下あごを微妙に位置を変え、擦り合わせながら食べる姿は、我が父親ながら、とても美しいとは思えませんでした。
娘としては、何だか胸が詰まって、こちらの食欲も失せがち。
誰もが通る道だとはわかっています。
ただ、ほんの少しでいいから、できればエレガントに老いたいものだと思わざるを得ませんでした。
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重複がん患者になって、人生のギアが入る
非浸潤性の乳管癌と甲状腺乳頭がん。
そのどちらもが、予後の良いがんです。
現在、厳しい治療に立ち向かっているがん患者の友人曰く、私のは、癌とも呼べないような「ヘボがん」とのこと。
であるにせよ、この2つの癌になったことは、少なからず私に変化をもたらしました。
「私は老衰コースとの思いこみ」
私の祖父母は、何と4人とも90歳を超えて老衰で亡くなるという長命でした。
98歳、96歳、95歳、93歳。
そんな4人の亡くなった年齢を聞かされるにつけ、我が家は長命の家系。きっと自分も長く生きるのだろうと、思い込んでいました。
そして、祖父母、両親、叔父、叔母の14人中、癌で亡くなったのは、2人。
国民の約2人に1人は、一生涯のうちに癌を経験すると言われるこの時代に、たった2人。
私は、いつしか、「自分だけは癌にはならない」という確信めいたものを抱くようになっていました。
自分もがんになるんだという驚き
乳癌が見つかったときは、最初からごく早期のものだということがわかっていました。
ですから、ショックというよりも、「へぇ~、私も癌になるんだ」という意外なことが起こった驚きを感じたのを覚えています。
「絶対にならないと思っていた癌になったんだ・・・」と。
そして、続いて見つかった甲状腺乳頭がん。
こちらは、しこりとの付き合い35年。
長い年月を経て悪性化していった甲状腺の細胞を思うと、特に老いを自覚するような症状はないものの、身体全体が老化し、細胞分裂のプロセスが変調を来たしているのだと、実感しました。
人生は有限、それも射程圏内
「自分が癌にはならない、多分、老衰コース」そう思っていた頃は、この先の人生は約30年。
この先30年、自分がどう生き、どう老いていくかのイメージがわかず、漠たる時間を思うと溜息が出ることもありました。
ただ、今回、この2つの癌になり、人生は、極めて有限であり、それも射程圏内である可能性を意識するようになりました。
この2つの癌の経過観察期間は10年。
この2つの癌を常に頭の隅に置きつつ、とりあえずあと10年をどう生きるか。10年をどう組み立てるか。
そして、前半の5年をどうするか、今年1年をどう過ごすか。
癌患者という看板をいただく前と今とでは、確かにギアが変わった・・そう感じています。
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還暦目前で重複癌患者デビューでございます
昨年12月、超早期の乳癌がみつかり、手術を受けた私。
術後の病理検査の結果も、4ミリの非浸潤性乳管癌と変わらず、放射線治療も抗がん剤も必要なしとの診断に、ほっと胸をなで下ろしておりました。
ところが、新たな癌がみつかり、重複がん患者デビューとなりました。
かれこれ35年前からあった甲状腺のしこり
あれは、25歳ごろ。最初に乳癌検診を受けた時、「首にちいさなしこりがありますね」と言われました。
びっくり仰天して、針生検をしていただきましたが、結果は、異常なし。
そして、その後、乳癌検診を受けるたびに、やはりしこりがあると指摘を受けておりました。
「大きくなってないからいいでしょ」そんなやりとりで20年が経過。
その後は、忙しさにまぎれ、乳癌検診も受けないままの数年が経過し、首のしこりのことは、自分でもすっかり忘れておりました。
PETで集積が
そんな折に、知人の勧めもあり、人間ドックの一環としてPET検診を受けました。
結果は、「首に集積が認められる」とのこと。
癌センターで超音波、生検、血液検査など受けましたが、これも、特にこれといった異常は認められず、「6か月おきの要経過観察」との診断。
3年ほど通ったところで、現在の住まいに転居することになり、経過観察は自然消滅。
全く自覚症状もなく、「首にしこりがあるようだけど、生涯、大きくならずにこのままの人もいるみたい」などと、自分に都合の良い解釈をして、数年、放置を決め込んでいました。
やはりPET検診で。専門病院へ行く
そして昨年受けたPET検診。
自分では忘れていましたが、首にやはり集積が。
もう、かれこれ35年にもなる「首のしこり」との付き合い。
この際「白黒はっきりさせた方がいい」という夫の勧めもあり、専門病院を受診しました。
そして、生検の結果、「甲状腺乳頭癌」と診断されました。
1.2センチ、8ミリのものと2カ所あり、甲状腺の摘出を約10日後の4月17日に受けることになりました。
還暦でリセット
ごく早期とはいえ、乳癌を発症し、長年あたためてきた首のしこりは癌化するなど、確実に身体は老化していることを実感しています。
ただ、どちらの癌も、早期に発見できたことは、本当にラッキー。
還暦という節目に見つかったふたつの癌。
まさか自分が重複がん患者になるとは思いもしませんでしたが、ここはしっかり治療して、人生の第2幕を堪能したいと思います。
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母親の病気が教えてくれたこと
本日、母親は、胃瘻をつくるための手術を受けることになりました。
当初は、先行きが見えず、父親も姉も、そして私自身も、気持ちが揺らぐことが多かったように思いますが、胃瘻をつけることで、介護は長期戦の構えに。
母の病状も、そして私たち家族も、安定期に入ったように思います。
この3か月半で感じたこと
母親が倒れてからの3か月半は、さまざさまことを感じた月日でした。
父と母、その夫婦の関係性の機微、今まで意識したことのない姉の一面を知ったり、離れて暮らす自分の立ち位置について考えたり。
人が老いていくという現実、そして、やがては訪れる自分自身の終焉について、フト思うこともありました。
母親の病気は、これからの生き方を考えるチャンスを与えてくれた
母親は、現在84歳。
あと24年あまりで私も母親の年齢を迎えます。
いつかは、母親のようにベッド上で寝たきりになるかも知れません。
その時、これから自分がどのような日々を積み重ねれば、自分の人生に「YES」を出せるのか。
母親の病気は、それを真剣に考えるチャンスを私に与えてくれました。
リタイア後はリハビリのような日々
若いころは、ガムシャラに働いてきました。
もう、1滴の力も残っていないという直前でリタイアし、5年。
リタイアするまでは、安定や安全をあえて選ばず、思いのままに生きてきました。
そして、リタイア後の人生は、過酷だった職業生活からのリハビリのような日々。
「ゆっくり生きる」練習を重ねていました。
「目標」を掲げて、それに向けて走ることからは、もう卒業。そう思っていました。
全く違う世界で、自分を輝かせてやりたい
ただ、今回の母親の病気で、「このままではいけない」という気持ちがわき上がってきたのは確かです。
リタイア前が、オセロの黒だとしたら、これからの人生はオセロの白。
必死に働いた日々も、大切な私の一部ですが、これからは全く違う世界で、自分を輝かせてやりたい。
これまでも人の目を気にすることなく、自由に生きてきたのだから、これからも誰に遠慮することなく、自分で自分をコツコツと育て、磨いてやりたい。
自分の持ち時間に気づく
そう考えてみると、自分の残されたコップの水がさして多くはないことに、気持ちが引き締まる思いです。
あと、20年。いや、あと10年かも知れません。
リタイア後習い始めた絵画教室。展覧会に出せるほどの作品を描いてみたいし、いつか個展も開きたい。
好きなダンスも、ずっと続けて70歳、80歳になっても舞台で踊りたい。
そして、誰かに教えられるほどの自信をつけてみたい。
母親の病気は、これからの生き方を考えるターニングポイントのひとつになる、そんな予感がしています。
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パートナーを失うことを想像してみる、それが終活の第一歩
88歳の父親と84歳の母親。
母親が脳梗塞で倒れてからというもの、父親の狼狽ぶりは、想像以上のものがありました。
典型的な亭主関白。
泰然自若としているかと思いきや、些細なことでオロオロするばかり。
その「気の小ささ」は、呆れるほどのものがありました。
「母さんが先に逝くなんて考えたこともないし、考えたくない」
それは、長くお付き合いのある父の友人の話しをしているときでした。
「奥さんを亡くして、もう4年になるかなぁ、寂しいだろうなぁ」と父。
父親の年齢になれば、妻を亡くして一人暮らしとなる男性も少なくはありません。
父親が暮らす高齢者マンションにも、妻に先立たれ、一人で暮らすシニア男性を何人も
お見かけします。
「お父さんの暮らすマンションにも、一人くらしの男の人、たくさんいらっしゃるけど、お父さん、自分も行く行くはそうなるかも知れないって考えたことないの?」
あえて、そう聞いてみました。
父は即座に、「ないよ、母さんが先に逝くなんて、考えたこともないし、考えたくもないなぁ」と。
妻を失うことに対する想像力を持たなかった父
今回の父親の狼狽ぶり。
それは、妻を失うことに対する想像力を持たなかったことが要因のひとつのように思いました。
「妻を失うことを考える」それを避けてきた父。
考えないようにしてきた父に、突然起こった母親の病。
現実を突きつけられ、ただオロオロするばかりの父。
この年齢になるまで、それを考えずに過ごしてきた父親の甘さに、少しの溜息とともに、何とも言えない父親らしさも感じています。
父に教えられたこと
昨今、私の周りでも「終活」という言葉をよく聞くようになりました。
話題になるには、「断捨離」、「遺産相続」、「延命処置に対する事前指示」、「お葬式・お墓問題」といったところ。
ただ、父親をみていて感じるのは、延命処置が必要な状態や葬儀が突然やって来るわけではなく、その前に少なからず人は、「配偶者に先立たれる」という現実に直面するということ。
「配偶者をどう看取るか」、「大切な人の最期をどう支えるか」を考えずして、自分の最期を具体的に見つめることなどできないような気がしています。
私たち還暦夫婦は、「パートナーを失うことを想像する、それが終活の第一歩」だと、88歳の父親から教えられました。
目を通していただきありがとうございました。
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若い頃の写真を見て脳が活性化?脳梗塞、寝たきりの母の場合
先日は、母親の84回目の誕生日。
ベッド上ではありましたが、本当にささやかなお祝いをしてきました。
しばらくぶりに会った母は、明らかに意識レベルが改善。
会話らしい会話ができるようになっていました。
昨日の最良のプレゼントは、若いころの写真
一緒に面会した姉が、実家から母親の若い頃の写真を持参しました。
1枚は、61年以上も前、22歳だった母親が、生まれたばかりの姉を抱いている写真。
もう1枚は、母親がテニスに夢中だった20年前、コート上でスマッシュを決めた瞬間の、ユニフォーム姿の母親の写真です。
「お母さん、わかる?こんな写真が出てきたの」と写真を見せると、
「わぁ~っ!」と母親の両頬が明らかにゆるみ、笑顔になりました。
そして、まじまじと写真に見入り、「こんな頃もあったんだねぇ・・」と。
そして、すぐに泣き顔になり、「ありがとう、ありがとう」と涙を浮かべました。
それから、あの頃に家族一同、タイムスリップ
「お母さん、きれいだったね。」「お母さん、若いっ!」
そして、「このスマッシュ、フォームが決まってるね」という声に、
ラケットを振るような仕草を見せる母親。
「そうだよ、母さん、若くてキレイだったんだから」という父親。
そして、またまた嬉し泣きの母親。
明らかに脳が活性化したと感じた時間
いつもは、会話ができても、しばらくすると眠りの世界に落ちてしまう母。
ただ昨日は、明らかに違っていました。
写真の頃の自分を懐かしみ、その頃の幸せを噛みしめ、自分を誇りに思い、そして、今ある家族に感謝する。
そんなさまざまな感情が、母の内に芽生え、喜び、涙していたように感じます。
傷ついた脳も、昨日ばかりは活性化していたようでした。
「写真の力」を実感
誰の言葉よりも、母親にさまざまな感情を呼び起こした2枚の写真。
正直なところ、私自身は昔の写真を見ても、「懐かしい」とは思うものの、さほど感情を揺さぶられるということはほとんどありません。
ただこの先、人生の最晩年を迎え重い病に倒れたとき、写真が大きな力を与えてくれるのかも知れません。
「写真の力」を実感したひとときでした。
目を通していただきありがとうございました。
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